56、心理学で読み解くアニメの世界
ユング心理学で読むアニメの世界
「魔女の旅々」
2020年の秋に放映されたアニメに「魔女の旅々(たびたび)」という作品がある。十代半ばの可愛らしい女の子が、見習いを経て魔女となり、広い世界を訪ね歩くという物語である。「旅」を題材としているように、毎回旅先でのエピソードが語られるのだが、その内容というのがちょっと独自の視点を持っていて面白い。良く言えば「神話的」なのかもしれないが、こういったアニメにはあまり見られない、ちょっとダークな側面が際立つ。
「魔女の旅々」で検索すると「炎上」という言葉も出てくる。放送開始後の早い時期から炎上していて、それも一話だけでなく複数の炎上回があるようだ。さて、その炎上ポイントは一体どこにあるのだろうか…。
作者の白石定規(しらいしじょうぎ・現在28才)さんについてWikiで調べると、この作品は一度自費出版した後、大きく加筆修正されていることが分る。その理由を「読者が気軽に読んでもらうようにすることと、明るい話と暗い話の両方を書きたかった」と答えている。この“暗い話”が炎上ポイントの一つといえるのかもしれないが、今回は全体を追っていくのではなく、炎上回に焦点を当てていろいろ検討してみたい。
では先ず、魔女の旅々についての概要を記しておこう。
『主人公イレイナは小さいころから「ニケの冒険譚」という本を読み、魔女となって旅することを夢見る。成績優秀なイレイナは最年少で魔女試験に合格するが、次の段階として、魔女に弟子入りして一人前の魔女としての承認を受ける必要がある。自信家だったイレイナではあるが、弟子入りを次々と断られ、やがて怪しげな「星屑(ほしくず)の魔女」のもとを訪れるのだが…。』
もちろんこの後修業を重ね、一人前の魔女となって旅に出ることになるのだが、第一話「魔女見習いイレイナ」、第二話「魔法使いの国」に続く第三話で最初の炎上が起こっている。第三話はショートストーリー2本から成っている。ここでは先ず前編のストーリーから紹介しよう。
第三話 花のように可憐な彼女
一、花畑
旅の途中、森を抜けると一面のお花畑があり、そこで花を摘んでいる女性を見つけたイレイナは、彼女の傍らに降り立つ。
「花畑を管理している方ですか?」
「この花畑に管理人はいないわ、わたしはただ花が好きだからここにいるだけ、花と遊んで、太陽の光を浴びているだけよ」
「では、これらの花は自然に咲いているのですか、すごいものですね」
「旅人さん、あなたは魔女? 一つお願いしていいかしら」
「わたしに出来ることなら」
「これからあなたが行く国に、この花束を届けてほしいの」
「それは構いませんが、誰に渡せばいのですか?」
「誰でも…、その花が美しいと思われることが大切なの」
「つまり私に、花畑の宣伝係をしろっ…、というわけですね」
「いや?」
「喜んで引き受けましょう」
「よろしくね、旅人さん」
「はい、確かに、誰かに渡しますね」
「いってらっしゃい」
二、城門
夜、町にたどり着いたイレイナは、城門から町の中に入ろうとするが、若い門番に止められる。彼は花束とそれを包んでいる布(上着)に関心を向ける。入手先について二人が言い合っているところに年長の門番が現れて、若い門番は帰される。
「すまんな、魔女さん、あいつは最近、妹が行方不明になって、それからずっとあぁなんだ、許してやってくれ」
「気にしてませんよ、…嘘ですけどね」
「ところでその花、悪いが、こちらで処分させてくれんか、そいつはこの国には持ち込み禁止の代物なんだ」
「どういうことですか」
「その花には毒がある、魔女のあんたには無害だが、それは魔法を扱えない人間の心を狂わせる魔力が混ざっている、花に魅了された人間は、虫が蜜に吸い寄せられるように、その花が咲いている所まで導かれ、養分になるらしい」
「だから、処分するということですか」
「すまんね、行ってもいいよ」
そして花は処分される。
三、翌日
城下町で一夜を過ごしたイレイナは、翌日次の町へ行く前に、気になることを確認するために前日立ち寄った花畑に向かう。するとそこに、昨夜の若い門番を見つける。
「こんにちは」
「昨日はどうも」
「妹さんですか?」
「ようやく見つけたよ、あんたが上着と花束を持ってきてくれたおかげで、ここにいるって分った、ようやく、ようやく見つけた、こんなきれいになって、こんな素敵な場所を独り占めにしていたなんて、なぁ、今度、国のみんなをここに招待してやろう、きっと喜ぶぞ、それに、花のようにきれいになったお前を、自慢したいしな、なぁ、いいだろう、そうか、ありがとう、ほんとうにきれいだ…」
イレイナは無言でその場を立ち去る。
四、衣服で包んだ花束
夜、衣服で包んだ花束を抱えた何人もの町の人々が、花畑へと向かう。
物語の考察
炎上とは、具体的にどのようなことを言うのだろうか。例えばこの物語で「ぎょっ」とするポイントは何だろう。それは「人々が花畑に吸い寄せられる様」ではないだろうか。その様子はまるで捕虫器に吸い寄せられる害虫のようである。単純に気持ち悪いし、彼らは養分になるため(死ぬため)に花畑にやってきているのである。
そういったストーリーに触れ、この物語に対して不満を持つ人がこう言うかもしれない。「イレイナは魔法使いなんだから町の人々を助けることができるはずだ、なのに知らん顔して次の町へ向かうなんて信じられない」あるいは「そんな花なら魔法で焼いてしまえばいいのに、イレイナは何もしない、人々を見殺しにしている」
つまり、イレイナは特別な力があるにも関わらず、死んでいく人々を無視しているのである。炎上を起こしている人々は、イレイナのそのような態度に幻滅し、腹を立てているのであろう。
一、置き換え
神話や昔話などを読むとき、それぞれが意味することを意識的に読み解くような習慣がある。筆者に限らず、そのような読み方をする方々も沢山おられるだろう。では、この「花のように可憐な彼女」という話をどう読み解いたらいいのだろうか。
例えば「可憐な彼女」は、意識しているのか無意識なのか良く分らないが、自分の信念や願望に従って行動していると言えるだろう。ただただ、素直な気持ちで花束を誰かに届けたいと思っている。
しかし、実はイレイナより強い魔力を駆使して何者かを利用し、縁のある人の衣服で花束を包み、養分となる人々をおびき寄せている食人植物だったことが明らかとなる。ではその植物には何か罪があるのだろうか…。植物は生きるための知恵を持って生きているだけのように筆者には感じられる。
当初イレイナは、単純にその依頼が正当なものだとして快く承諾するのだが、最後には、確認しておこうと花畑を再訪する。そして悲しい現実と向き合うことになる…。さて、ここまでの話で、それぞれ何か思い当たることが一つや二つあるのではないだろうか。
真っ先に思い起こされるのは、いわゆる「運び屋」というものだろう。「可憐な彼女」から「その花が美しいと思われることが大切」と言われて、イレイナは結果として運び屋をやらされてしまったことになる。
ただ、この段階では、イレイナは門番に咎められることはなかった。彼はイレイナに悪意を感じなかったからかもしれない。しかし、花束が届けられたことをきっかけに、若い門番は花畑へと向かうことになる。
ところで、運び屋という言葉からどのような「物」あるいは「事柄」を連想されるだろうか。おそらくほぼ全ての人は「違法な物」つまり薬物であったり、武器であったり、隠し財産といったものを想い起こすのではないだろうか。
筆者はこれらのワードから「麻薬の運び屋として、それを町に届けてしまったことにより、人々が麻薬の犠牲となってしまう」という現実的な問題と重ね合わせてしまうのだが…。さて、あなたはどのように感じられるだろうか。
二、主人公に求められるもの
内容について不満を感じ、炎上させるような人々は、自分が思ったような結末とは全く違う、むしろ真逆のストーリーを見せられることで、心が深く揺さぶられることに耐えられず、心の内を吐き出さずにはおられないために、その不満をぶちまけているのではないだろうか。
彼らはイレイナ(ヒーロー、ヒロイン)に対して過度な要求をしているように感じられる。つまり「可憐な彼女」を罰し、花畑を焼き尽くし、人々の生命を守ることがヒロインとしてのイレイナが取るべき責務であると、固く信じて疑わない人たちが多数いるということなのである。
以前にも紹介した「ネガティブケイパビリティ」という考え方がある。解決できないことであっても、それを受け入れ、耐え続ける心のあり方、と言えば分りやすいだろう。このネガティブケイパビリティという考えに対して、先の信じて疑わない態度は、単純に未熟と言わざるを得ない。世の中、自分の考えた通りに物事が進むはずがないのだが、そういった事実を受け入れられないことによる心情の吐露が、炎上を引き起こすのではないだろうか。
正直に言えば、イレイナは花束を届けたことを悔いることもないし、城下町の人々を助ける必要もない、ましてや花を焼き尽くすことも全く必要ないのである。イレイナは旅人であって、そこに暮らす人々の生活に深く足を踏み入れることはない。彼女は部外者なのである。
三、サンデル教授の白熱教室
もう何年も前になると思うが、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授が行った公開授業の模様を「白熱教室」と称し、NHKで放映されたことがある。ご記憶の方も多いだろう。この中で「正義」とは何か、について考察を深めるために「トロッコ問題」が引用されているので紹介したい。
この「トロッコ問題」というのは「より多くの人を助けるためであれば、少数は犠牲となってもよいのだろうか」という、ある意味で究極の選択を迫る問題である。以下にトロッコ問題の要旨を記しておく。
『線路を走っている一台のトロッコが制御不能に陥ってしまい、このまま進めば向かった先で作業をしている5人がトロッコにひき殺されてしまう。あなたは偶然にも、トロッコが走る線路の分岐切り替えレバーの近くにいる。レバーを倒してトロッコの線路を切り替えれば5人は助かるが、切り替えた先にも1人の作業員がいる。5人を助けるためなら1人を犠牲にしてもよいのだろうか。あるいはこのままにするべきなのだろうか。』
さて、みなさんはこの命題にどう答えるだろう。
もしレバーを切り替え、5人を助ければ、切り替えた先の作業員1人が死んでしまう。たとえ5人を救うためとはいえ、明らかな殺人行為だろう。
切り替えなければ5人は死亡することになる。
中には、レバーを中間の位置にしてどちらにも被害が及ばないようにするのがいいのではないかと主張する人も出てくる。しかしその場合、列車は脱線し、さらに横倒しになれば、作業員6人全員が被害に遭うことも想定しなければならない。出来ることは限られているのである。
この命題をこの物語に当てはめてみると、面白いものが見えてくるのではないか。つまり「城下町の人々」を5人の作業員、可憐な彼女(花畑の主)を1人の作業員、イレイナ(あなた)は切り替えレバーに偶然居合わせた人と置き換えることができるだろう。
四、まとめ
ちなみに「トロッコ問題」には一定の回答が用意されている。それは「黙ってそこから去れ」というものだ。先にも述べたが、レバーを引けば1人殺害することになり、何もしなければ5人を見殺すことになる。その場にいれば事故現場の当事者の1人となってしまう。
しかし、何もしないでその場を去れば、事故とは一切関係のない人生を送ることになるだろう。現場を目撃する必要も無い。それがいいか悪いかは別にして、現実的に全く責任を取る必要はないのである。すなわち、リスクの完全回避である(「正義」という論点とは少しずれているかも知れないが)。
当然、城下町の人々(5人の作業員側)を助けたいと感じる人が多いとは思うが、その場合、花畑を一面焼き払うことになるだろう。その結果、花畑とその主(1人の作業員側)を絶滅させることになるかもしれないのだが、それは正義といえるだろうか。
現時点では、花の魔力で花束の運び屋をやらされてはいるが、それは魔力の差による不可抗力でもある。現に他の人々も衣類の巻かれた花束を抱えて花畑に吸い寄せられている。運び屋はイレイナ一人ではないようだ。
しかし、この後イレイナが行動を起こせば「たまたまそこに居合わせた旅人」ではなく、どちらかに肩入れする「当事者の一人」となってしまうだろう。これはその地に住む城下町の人々と、魔力を持つ花畑の主との生死をかけた攻防なのである。
さて、花畑の主はイレイナを騙すほどの魔力の持ち主である。イレイナはどのような判断をしたのだろうか…。それはこの物語をご覧のみなさまならご存じのことである。
五、最後に
さて、本来なら結論めいたことを表明するのがいいのかもしれないが、今まで論じてきたことは、はっきりと答えがでるような問題ではない。当然、人により正義の考え方は違うだろうし、違って当たり前でもある。
だが、自分が混乱を引き起こす「当事者」となることを「良し」とする人はあまりいないのではないだろうか。解決できるのか分らないまま突っ走ることは、賢い選択とは言い難い。だがしかし、そういった道を好んで進んで行く人たちもまた、かなりいるのではないだろうか。
ヒーロー体質といえば響きはいいが、騒動を治めるのではなく、むしろ事を大きくするのがこのタイプと言える。つまりどちらかに味方して解決を目指すのであるが、目指す解決案は結局、自分の偏った思考に左右されているのである。
もう一つは、深く関わらないタイプである。それぞれの生き方を尊重し、自分の考えを押し付けることを好まない人々である。もちろんいつもこのような行動パターンを取るわけではないが、概ねそういう傾向を好むタイプといえばいいかもしれない。イレイナはどちらかというとこのタイプではないだろうか。
十代半ばの女の子(男の子でも)にとって、自信を持って問題解決に真っすぐ突き進むことなど、そう簡単に出来るものではないだろう。イレイナにとっては、問題解決が第一の目的ではない。「旅」を優先するイレイナにとって「何がリスクか」を考えると、自ずと彼女の行動原理も見えてくる。
実はこの後の話「瓶詰めの幸せ」の中でもこういった傾向が読み取れるので、次回、その点も含めてさらに検討を深めていきたいと思う。
では、次回。