76,心理学で読み解くアニメの世界

          心理学で読み解くアニメの世界

           「僕が愛したすべての君へ」

 

 

「僕愛」「君愛」などといわれたアニメ映画二本が公開されました。どちらを先に見るかで映画のクライマクスの印象が違うということらしいのです。大きく二つの世界観を持った物語が双方に深く関わりつつ、全体で一つの物語を構成しているという大変珍しいスタイルの作品となっているので、ぜひ見ておきたいと思いました。

 

もちろん十分面白かったのですが「並行世界」という独特の世界観が、物語の理解を妨げている部分があったように思います。しかし「並行世界」があることによって生まれた物語でもあるので、集中して見ないと後れを取ってしまいそうです。

 

今回はこの二作品についていろいろ考察したいと思うのですが、物語が極めて複雑なので、かなり簡略化してお話しすることになるかと思います。また、映画を一度見ただけですので、記憶違いや思い違いも多々あるかと思います。その点どうぞご容赦願います。

 

では先ず「僕愛」のストーリーについてです。

 

物語は「虚質科学」なる学問によって「並行世界」との接触が実現可能となった世界が舞台です。主人公暦(こよみ)は親の離婚によって母親に引き取られ、中学を卒業し高校へ。するとそこで和音(かずね)という同級生の女の子に声を掛けられます。この世界から85離れた並行世界から来たと暦に告げますが、それは後に狂言だったことが分かります。

 

やがて二人は同じ大学、同じ職場へと進み結婚します。そして男の子が生まれます。男の子が五、六歳になったころ、家族で花火を見に行くのですが、その会場にナイフを持った男が現れ、男の子が襲われます。

 

この世界では暦が犯人に体当たりして男の子は一命をとりとめますが、並行世界では命を落とします。暦と和音は比較的簡単に並行世界へ行ける能力があるのですが、暦は最近和音の様子がおかしいことに気づき、和音に尋ねます。すると和音は子供を失った並行世界からやってきたことがわかります。

 

悲しみに打ちひしがれた並行世界の和音は、子供を求めてこの世界にやってきたのですが、暦に説得され、元の並行世界へと帰っていきます。

 

それから数十年、人生を終えようとしている老年期に、暦は記憶の無い予定があることに気づきます。その場所は自宅近くであるため、彼はその時刻に車いすで予定の場所へと赴きます。

 

そこは自宅近くの交差点で、暦は出会ったことのない少女の姿(幻影)と遭遇します。どことなく懐かしさを感じるものの、少女の姿はすぐに消えてしまいます。その場所から立ち去ろうとする暦は激しくせき込み、薬を飲もうとピルケースを取り出しますが、うっかり足元に落としてしまいます。

 

ピルケースが拾えず苦しんでいると、近くを通りがかった同年代の女性が暦に声をかけて、ピルケースを拾ってくれます。暦は礼を言うと「どこかで会ったことがあるのでは」と女性に語りかけます。

 

しかし女性は「お会いしたことは無いのでは」と答えます。落ち着きを取り戻した暦は「今は幸せですか」と尋ねると、彼女は「はい、幸せです」と答える。暦の人生がとても豊かで、充実したものであったこと伝わってきます。

 

この交差点のイベントは「君愛」との関りが大きい部分で、この部分だけではよく分からない構造となっています。いずれにしてもこの映画は、暦の人生の一つの側面を幼少期から成人期、老齢期に渡って表現しています。

 

 

さて、この映画を複雑にしている要素が最初にお話した「虚質科学」という概念です。例えば「忘れ物を見つけることが出来る場合」と「見つけられない場合」があるとすると、「見つられた世界」と「見つけられない世界」とが近似して隣り合っていると考えるそうです。

 

そう考えると並行世界は無数に存在することになり、和音が最初に言った「85離れている世界」はある程度遠いことになるのかもしれません。また、暦と和音は転移装置を使わなくても転移しやすい能力があるとされています。つまり、彼らはかなり自由に並行世界を横断できることになっています。

 

先にも話した通り、並行世界を行ったり来たりすることで、主人公暦は人の心の裏にある感情や、本当の想いというものを学んでいきます。ただ、これらは現実の世界でも十分に学ぶことができるもので、並行世界であることの必然性はあまり感じられません。

 

この物語の一番のポイントは、子供を失った並行世界の和音が、子供が生きている現実世界へと転移してくるところでしょう。並行世界の和音も暦が愛した和音です。自分の世界へ戻るよう促す暦に対して「あなただけ幸せで…」と妬む気持ちを返します。

 

並行世界であっても和音は和音であり“すべての君”が自分の世界で幸せに生きていてほしいと暦は願います。しかし“すべての君”が幸せな人生を過ごせるとは限りません。今見てきたように、子供を失った和音もいるのです。「僕愛」のテーマはまさにその部分にあるのだと感じました。不幸や絶望に苦しむ“すべての君”と「私自身」のありのままを受け入れられるのだろうかと…。

 

 

ところで、この並行世界という考え方ですが、少し思うところがあるので深堀してみたいと思います。

 

かつてデヴィッド・リンチ監督が「マルホランド・ドライブ」という映画を撮りました。この作品は大変難解とされた映画で、大きく前半と後半が倒置されているといわれています。確かに前後を入れ替えて考えてみると、物語の全容が何となく見えてはくるのでが、それでもすっきり理解することはできません。

 

リンチ監督はインタビューで「言葉で説明できるようなら映画監督にはなっていない」と言っているように、合理的に心の内が説明できないから映像作家になったという趣旨のことを答えています。つまりインタビューされても作品の本質については正確には答えられないということなのでしょう。言い換えれば、伝えたいことは映画の中にしかないということなのです。

 

なるほど、言われてみればその通りだと思いますが、それでもファンは作者が意図したことを聞きたいものなのです。詳しく話せなくとも、そのエッセンスを感じたいものなのです。しかし、リンチの作品はどれも理解が難しく、視聴者の創造性を刺激します。逆に言えば、それが彼の作品の大きな魅力なのだということなのでしょう。

 

私自身、この映画を「理解した」などと思いませんし、これからも理解できないと思っているのですが、ある人がyoutubeでこの映画についての新たな解釈の説明をしている動画に出会ったことがあります。その新たな解釈というのが「並行世界」という概念の採用です。

 

映画のストーリーについては、あまり詳しくは触れませんが、田舎から出てきた女優を目指す主人公が、たまたま知り合った記憶喪失の女性と一緒に、彼女に起こった喪失の原因を探り始めるというものになっています。原因を探るうちに、幻想的で不可思議な世界が展開されることになるのですが、一番の問題は、自分の「死体」を発見するあたりから、辻褄の合わない理解不能な物語が繰り広げられるということだと思います。

 

解説者は、これらの意味不明な物語について「並行世界」を想定することで、かなり見事に説明していました。つまり「生きている自分が、並行世界の死んだ自分の遺体を俯瞰している」といった感じです。その時は、なるほどと感心して聞いていましたが、よく考えてみると「並行世界」を想定すると「なんでもあり」の世界が構築できることに気がつきました。

 

時間軸を一直線の糸のようなものと想定すると、並行世界は幅広く織り込まれた布のようなものに例えることができるでしょう。布上のあらゆるポイントがお互いにつながっていると考えれば、確かに生きている自分が死んでいる自分を俯瞰するポイントがあるような気もします。

 

しかしこのような考え方は、現象を説明することは可能かもしれないのですが、なぜそのような現象が起きたのかという必然性についてはうまく説明できないように感じます。たまたまそれが起こっただけ、ということも一つの考えではあると思うのですが、もう少し出来事の理由を考えてみたいと思ったりもします。

 

生きている自分が死んでいる自分を俯瞰する意味、あるいはなぜその時その現象が起こったのか、みたいなものでしょうか…。いずれにしても「マルホランド・ドライブ」には、そういった不可思議な映像表現が満ち溢れていて、そう簡単に飽きることはないように感じているところです。

 

 

さて、話を「僕愛」に戻しましょう。「並行世界」については今までお話したように、なんでもありの「魔法の仕掛け」であり、冒頭からこの並行世界についての解説をすることで、多くの視聴者はこの複雑な時間軸や平行世界移動に思考を奪われます。

 

当初は物語を「理解」しようと必死にストーリーを追っていきますが、架空の科学であるため途中で挫折することになるでしょう。それよりも、この物語の核心的部分、すなわち“すべての君”とどのように関わるかという命題が浮かび上がってくるように感じます。

 

先にも書いたように「この並行世界の和音は受け入れられる」が「別の並行世界の和音は受けられない」といった、同じ人物のさまざまな側面を見ていくことになります。人にはいいところばかりではなく、イヤな側面も数多く存在するでしょう。それら「愛する人のすべての部分」をいかにして自分の中に統合していくのか…。

 

このアニメではイヤな和音をあまり強調してはいないものの、現実の中の人間には様々な性格や気質があります。愛した人のすべてを愛するということは言葉では簡単ですが、なかなか一筋縄ではいかないのも事実ではないでしょうか。

 

この世界の暦は、人生を通じて和音を愛し続けてきたことが分かります。「虚質科学」という架空の科学を題材にしていても、その中で描かれているテーマが愛する人との関りであると考えれば、このアニメはとても分かりやすい恋愛物語だったのだと理解できるような気がします。

 

 

さて、「僕愛」の最後には交差点でのイベントがあるのですが、実はこのイベントは「君愛」を見てからでないとなかなか理解しがたいパートとなっています。

 

この世界ではほとんど関わりのない少女の幻影との出会いなのですが、なぜか懐かしさを感じる暦。この一瞬こそが「君愛」の暦にとっていかに大切な出来事だったのか。次回の投稿では「君を愛したひとりの僕へ」について考察をしたいと考えていますので、よろしければぜひまたこちらへご訪問ください。

 

では。