78,心理学で読み解くアニメの世界

          心理療法で読み解くアニメの世界

               「カラフル」

 

第一回

 

今回は2022年7月3日の勉強会で取り上げたアニメ映画「カラフル」について、その時に使用した資料を再編集して投稿したいと思います。原作は森絵都、監督は原恵一です。一度死んだ「ぼく」がもう一度人生をやり直すことで他者の心に深く触れていくという、人生の再チャレンジ物語です。

 

では先ず、物語について軽く触れておきましょう。一度死んだ「ぼく」は、天使に「抽選にあたりました」と言われ、「前世の過ちを償う」ために下界で誰かの体に乗り移って過ごす「ホームステイの修行」を行うこととなります。「ぼく」の魂は自殺を図った「小林真」という中学三年生の少年に乗り移り、「ぼく」の「修行」がスタートします。

 

ガイド役の天使によると、父親は利己的で母親は不倫しており、兄の満は無神経な意地悪男のようで、学校に行ってみると友達がいなかったらしい真に話しかけてくるのは変なチビ女だけですが、「ぼく」が真として過ごすうちに、しだいに家族やクラスメイトとの距離が変ってくる、という内容になっています。

 

「修行」する理由は、「ぼく」が「かつて犯した罪を償うため」だといいます。つまり、過去の記憶を失った「ぼく」は、「小林真」の体を通して、「ぼくの罪」を思い出さなくてはならないのです。しかも期間が限られています(約半年?)。一見すると、ちょっとしたミステリー仕立てになっていて、私たちはいつの間にか「ぼく」の視線を持って、この世界に入り込んでいきます。

 

「ぼく」が犯した≪罪≫とは? 

なぜ「ぼく」が≪当選≫した(選ばれた)のか? 

なぜ「真」の体にホームステイすることになったのか? 

その意味は何なのか?

 

これらの事を検討すると、思春期を迎えた若者たちが直面する社会的、精神的な困難が見えてくるような気がします。それらの困難は日常的に起こり得るもので青年期、成人期や成人期後期であっても取り扱うのが難しいものなのではないでしょうか。

 

 

物語は「ぼく」の自殺をきっかけとして始まります。思春期・青年期の心性としては、哲学や宗教的な課題に興味を持ちやすい傾向がみられると共に、妙に理屈っぽいところが現れてきます。

 

それと共に、保護された家庭内から次第に未知の世界、すなわち大人の世界へ旅立つことが要求されます。人生とは一度きりの片道旅行であり、行き先が不明であるだけに、その内面は不安でたまらないといえるでしょう。

 

児童期ぐらいまでは、挫折しても親元に戻って、泣いて甘えることができるかもしれませんが、思春期を迎えてくると「頼ること」に対して、それを容易には受け入れられない心性が現れてきます。しっかりとした人格が形成されるには、まだ時間や経験が必要であるにも関わらず、未熟な自尊心がそれを阻んでいるのでしょう。

 

この時期の彼らは、極めて不安定で、危ういバランス(生と死、夢と現実、集団とその中の個人としての葛藤など)を保ちながら、歩みを進めているのです。彼らの意識は、常に半分それらの中(幻想的世界)に足を踏み入れているといえるのかもしれません。

 

 

ではここから、「ぼく」が経験する出来事について少しずつ考察をしてみたいと思います。まず「ぼく」は「小林真」という少年がどのような人物で、どのような人生を生きてきたのかを、記憶喪失者のように先入観の無い状態で探り始めます。当初「真」の家庭は何の問題もない普通の家庭のように感じていた「ぼく」ですが、やがて触れてはいけない「何か」をそれぞれが抱えていることに気がつき始めます。

 

一方学校では、奇異なものを見るような周りの視線から、「真」はいじめによって仲間外れにされていたことを「ぼく」は敏感に感じ取ります。そんな「ぼく」に話しかけてきたのが桑原ひろかと佐野唱子です。

 

 

桑原ひろかは「ぼく」との間に距離を置くこともなく笑顔で接してくることから、「ぼく」はほのかな恋心を抱くようになります。対して佐野唱子は「真」の変化が気になり、何が起こったのかを探ろうとして「ぼく」の様子を気に掛けます。少し煙たい存在ですが、唱子は「真」と「ぼく」に関心を持ち続けます。

 

ではここで、桑原ひろかについて焦点を当ててみたいと思います。「ぼく」が衝撃を受けるイベントに、ひろかの援助交際があります。「欲しいものはみんな高い…」と言って、大人の男性とのデートを屈託のない笑顔でさらりと言って退けます。援助交際の社会的問題はここでは一旦横に置いて、援助交際をしている「ひろか」という存在を検討してみましょう。

 

思春期・青年期の男の子にとって、密かに思いを寄せる女の子が、援助交際によってお小遣いを稼いでいる実態を目の当たりにすれば、当然普通の精神状態ではいられないということは、容易に想像することができるでしょう。「真」の精神的ダメージは計り知れないものがあります。では「ひろか」はどのような人物なのでしょう。罪悪感など、あるのでしょうか…。

 

ここで、ある古典的な物語が頭に浮かんできます。アヴェ・プレヴォーの小説「マノン・レスコー」(1731年)がそれです。主人公のマノン・レスコーは「ひろか」のモデルといえるかもしれません。ちなみに、同小説を基に制作された映画が「情婦マノン」であり、1949年ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞しています。

 

マノン・レスコーは美しく、天真爛漫な性格の持ち主として登場しているのですが、物質的な豊かさを好み、金銭的に援助してくれるお金持ちの老人などに身を委ねることに、特段の罪悪感を持つことはありません。もちろん、年の近い青年デ・グリューとの恋愛において思い悩むこともあるのですが、貞操観念が乏しい人物として描かれています。最後には青年との愛を貫くことになるのですが、その行動の破滅的傾向から、この作品は「ファム・ファタール(運命の女・男を破滅させる女)」を扱った文学作品とされています。

 

「ひろか」は、そこまで破滅的な性格付けがなされているわけではありません。終盤ではむしろ、彼女自身もとても苦しんでいることが語られ、そのことについて「ぼく」は「ひろか」に「みんなそうなんだよ、でも死んではだめだよ」と告げています。

 

いずれにしても「ひろか」という人物は、世の男性にとっては容易には受け入れ難い、永遠の難問を抱えた女性モデルの一つの形を成しているといえるのかもしれません。

 

 

そんな「ひろか」に心奪われ、彼女の後を追跡している時に出会ったのが早乙女君でした。同じ場所で二度も出会い、二度目の出会いの時には早乙女君から廃線の後を辿って公園へと誘われることになります。以前なら、そのような関係にはなれなかったのかもしれませんが、「ぼく」は早乙女君の誘いを受け入れます。

 

ユング心理学コンステレーションという考え方があります。この言葉はもともと星座を意味する言葉ですが、ここでは「偶然の中に一定の意味を見出す能動的な解釈」とでも言えばいいでしょうか。どんな人にでも偶然の出会いがあり、それを一期一会というのでしょう。その出会いに意味を見出し、新たな関係性を獲得することで人はより深く、大きく飛躍できるのではないでしょうか。

 

早乙女君としては、最近様子が変わった「小林真」に声をかけてみたくなったのでしょうし、「ぼく」は自分に関心を持つ者など誰もいないと思っていたところに声をかけてきた早乙女君という存在に興味を持っただけなのかもしれません。「準備された偶然(早乙女君との出会い)」が「準備された偶然(ぼくの受容的心情)」と響きあった瞬間といえるでしょう。

 

いずれにしても二人は、偶然の出会いによって友達となり、真綿が水を含むように親交は一気に深まります。「ぼく」にとって早乙女君という親友の獲得は、自己の成長にとって決定的ともいえる出来事だったのではないでしょうか。早乙女君との交友が、さらに「ぼく」に変革を与えていくことになります。

 

 

ではここで、家族の存在に焦点を当ててみましょう。「ぼく」には満という兄がいます。初めのころは愛想の無い兄として描かれていますが、誰よりも「ぼく」を気にかけています。反発もしますが、兄弟としての絆は深いものがあるように感じられます。

 

兄弟姉妹には様々な葛藤があります。成績の良い悪いに始まり、生活態度が良い悪いなど、あらゆる分野において、親からの比較の対象となっています。そして悲しいかな、比較されるとそこに優劣が発生し、そのことで一喜一憂してしまうことも事実でしょう。

 

そんな兄弟間の軋轢について、ユング心理学ではカインとアベルの物語を元に、カインアベル元型というものを想定しています。以下、カインアベル元型について少し触れていきます。

 

カインとアベルの物語は旧約聖書創世期の中に出てきます。彼らはエデンの園を追放されたアダムとイブの子供たちです。兄カインは農耕による産物を神に捧げ、弟アベルは羊飼いとなり育てた羊から生まれた初子を捧げます。神はアベルの捧げものを喜びましたが、カインの捧げものには関心を示しませんでした。

 

嫉妬したカインはアベルを荒れ野に呼び出し、彼を殺してしまいます。神はカインに「アベルはどうした?」と尋ねますが、カインは「知りません」と答えます。すでにことの仔細を知っている神は、カインに罰を与えます。すなわちカインは追放され、放浪者となり、彼を殺す者が七倍の復讐を受けるという呪いが掛けられ、誰からも殺されないよう「神の印」を付けられたのです。

 

神の偏った愛(あえて偏ったと言っておきます)に対して不満の感情が抑えられなかったカインは、嫉妬のあまり弟アベルを殺してしまうという兄弟殺しの罪を犯してしまいます。ではなぜ、神はアベルの捧げものを喜び、カインの捧げものに関心を示さなかったのでしょうか。

 

…悲しいかな、それは誰にも分からないことでしょう。神は気まぐれ、とだけ言っておきましょう。

 

神がアベルの捧げものを喜んだ時、カインは弟の名誉に対して共に喜ぶことができたのではないでしょうか。神は本当にアベルを褒め、カインを貶めたのでしょうか。…これはなかなか評価の難しい問題であると思いますが、皆さんはどのように考えますか。

 

神が絶対であるならば神の言葉はすべてを正しく言い表しているのでしょう。つまり「アベルの仕事は素晴らしかった」のが事実だとしても、神は決して「カインの仕事はひどかった」とは言っていません。「自分は認められなかった」と勝手に思い込んでいるのはカインなのです。カインこそが、勝手な思い込みによって自らの悪意を増大させたのではないでしょうか。

 

 

こういった兄弟間の諍いを扱った物語は日本の神話にもみられます。古事記の中に「海幸・山幸」という有名な物語があるのですが、カインアベル元型と比較してみると面白いのではないかと思いますので、ここでご紹介しておきましょう。

 

ニニギノミコトコノハナサクヤヒメとの間に生まれた三柱の御子である火照命(ホデリノミコト)、火須勢理命(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホヲリノミコト)のうち、海幸・山幸の物語はホデリノミコトとホヲリノミコトの物語となっています。

 

ホヲリノミコト(山幸彦)は兄のホデリノミコト(海幸彦)に対して幸換(さちが)えを求めます。幸とは収穫物のことであり、同時にそれを取る道具をも意味します。幸換えを承諾させるとホヲリノミコトはホデリノミコトから釣り針(鉤・ち)を借り受けます。

 

しかし海に出てもまったく魚が釣れず、しかも釣り針まで失ってしまいます。ホデリノミコトはホヲリノミコトに幸換えの中止を申し入れます。道具は本来の所有者の手にあるからこそ、威力を発揮するものであると告げます。

 

ホヲリノミコトは仕方なく釣り針を失った次第を告げると、ホデリノミコトは釣り針を返せと迫ります。ホヲリノミコトは帯びていた剣でたくさんの釣り針を作り償いとしましたが、ホデリノミコトはなおも本物を要求します。

 

困り果てたホヲリノミコトは、泣きながら浜辺に座り込んでしまいます。すると塩椎神(シオツチノカミ)という名の神が現れ、无間勝間(まなしかつま)の小船(をぶね)で「綿津見神(ワタツミノカミ)の宮」に行くように教えます。

 

ホヲリノミコトは海神の宮で、海神の娘トヨタマヒメと結婚し、三年ばかりを過ごします(異界淹留譚・いかいえんりゅうたん)が、失った釣り針のことを思い出したホヲリノミコトは、海神の助力で釣り針を探し出し、地上に戻ることになります。

 

海神はホヲリノミコトに釣り針を返す際、そこに呪いを掛ける方法を教え、さらに潮の干満を操る二つの宝珠(塩盈珠・しほみつたま、塩乾珠・しほふるたま)を授けて、ホデリノミコトが服従するよう仕向けます。

 

地上世界に戻った山幸は、呪いの掛かった釣り針をホデリノミコトに返します。するとホデリノミコトは呪いを受けて貧しくなり、また荒れすさんだ心を起こしてホヲリノミコトのもとに攻めてきます。そこで、ホヲリノミコトは二つの宝珠を操って、ホデリノミコトを溺れさせ、ついにこれを屈服させことになった、というのが海幸・山幸の物語です。

 

 

さて、カインアベル原型では「羨望」がテーマとなっていたように思います。「うらやましい」と思う気持ちは意欲を掻き立てることもありますが、人を貶めようともします。受け手の心情が未熟であるのか、神の偏った愛情表現に問題があるのか…。

 

神は恵みを与えてくれますが同時に試練も与えます。豊かな自然は人間の生存に必要不可欠ですが、時折荒々しく牙をむきます。そういった恐ろしいし自然現象に「偏っている」と言ったところで、我々の言うことを聞いてくれるわけではありません。いくら神に文句を言ったところで私たちの都合などお構いなしです。受け取る私たちの心の問題です。

 

一方「海幸山幸」の物語では、兄が弟の失敗を責め立てます。たまりかねた山幸は、一旦は退避するものの知恵をつけて海幸を征服します。弟の戯れに付き合って大事な針を貸したのは兄です。この時点で兄はトラブルを抱えたことになるでしょう。案の定針は失われ諍いが始まります。

 

弟からの「幸替え要求」が親密さゆえの甘えであると考えれば、兄はそれを安易に受け入れてしまったことになります。その結果弟は大事なものをなくす…。どこの家庭にも起こりうる、日常的なハプニングの一つではないでしょうか。

 

いろいろなテーマを抱えた物語ではあると思いますが、強いて言えば年長者の寛容さを説いているようにもみえます。こらえ性の無い兄が執拗に返還を求めたことが、弟の復讐心に火をつけたということなのでしょう。親密であるが故に恨みも大きくなってしまう…。怖いですね。

 

当然「満」や「真」もこれらの葛藤を抱えていたのでしょう。冒頭、「兄の満は無神経な意地悪男」と紹介があるように、「真」にとっては苦手な存在であったようです。しかし後段、進学の話を真剣に家族で話しあうことで、それぞれの想いが伝わるようになります。

 

「親密であるが故に恨みも大きくなってしまう」と先ほど言いましたが、きっと逆もまた真なり?…。強い恨みを抱えていても、親密さがあるからこそ理解し合えるものでもあると信じたいものです。

 

 

では今回はこの辺で。