80,心理学で読み解く映画の世界

          心理学で読み解く映画の世界

          「イニシェリン島の精霊」

 

 

「イニシェリン島の精霊」という映画を観てきました。公式Webページでは「本作の舞台は本土が内戦に揺れる1923年、アイルランドの孤島、イニシェリン島。島民全員が顔見知りのこの平和な小さい島で、気のいい男パードリックは長年の友情をはぐくんできたはずだった友人コルムに突然の絶縁を告げられる。」と紹介されています。

 

絶縁を告げられた後どうなるのか…。

 

前回取り上げた「カラフル・第一回」の中で、兄弟の葛藤を描いた「カインとアベル」の物語を紹介しました。この「イニシェリン島の精霊」という映画は、「カインとアベル」の物語がテーマとしていることと通底しているように感じますので、今回はそのあたりを中心に思うところを書いてみたいと思います。

 

ではこれ以下、「イニシェリン島の精霊」のストーリーについても言及していきますので、ご覧になっていない方はご注意ください。なお、映画館で一度観ただけですので、記憶違いなどあるかもしれません。その点、どうぞご容赦願います。

 

 

さて、絶縁を告げられた後どうなるのか…。

この映画は、ただただ二人の仲が悪くなっていくだけの映画です。

 

物語が始まると、主人公パードリックは友人コルムから「もう自分と関わって欲しくない」と告げられます。いきなりの宣言にパードリックは言葉を失います。『何か怒らせるようなことをしたのだろうか…。』パードリックは自問自答しますが答えを見出せません。

 

納得のいかないパードリックは何度となくコルムに話しかけますが、コルムの気持ちは変わりません。コルムの言い分はこうです。「君は退屈な男だ。君と話すことは時間の無駄だ。自分にはやりたいことがあるので、君との時間を過ごしたくない。」

 

中でも「ロバのクソの話を二時間聞かされたときはうんざりだった」と言われ、パードリックは言葉を失います。彼は「楽しい時間を過ごしたじゃないか」と応じますが、コルムの考えは変わりません。パードリックは一人悶々とした時間を過ごしますが、話をすれば分かり合えると考え、引き続きコルムに話しかる機会を得ようとします。

 

するとコルムはついにキレて、次のようなことを宣言します。「お前が私に話しかけるたびに、私は左手の指を一本ずつ切り取る。指が全部なくなればバイオリンを弾くこともできなくなるので、その時は静かな時間の中で生きていく。だから私に話しかけないでくれ!」

 

パードリックは絶句します。しばらくは会話を慎んでいるものの、しかしやがてコルムに話しかけてしまいます。コルムの様子から、怒ってはいないと考えていたパードリックでしたが、その後自宅のドアに何かが当たる音がして確認のために外に出てみると、そこには切り落とされた指が落ちていました。

 

さて、物語は以上のような内容が延々と続いて、結局コルムは左手の指をすべて切り落としてしまいます。そしてさらに悲劇が起こります。

 

パードリックのロバが彼の家の庭で死体となって発見されます。ロバは切り取られた指をくわえていました。彼はロバが毒殺されたと考え、コルムに対して憎しみを向けます。復讐を決心したパードリックはコルムの家に火をつけることを宣言し、その通りに行動します。

 

その際、コルムの飼い犬には責任がないと思ったパードリックは、その犬を連れて自宅で世話をします。翌日、パードリックは燃え尽きたコルムの家に犬を連れて戻ってくると、犬はコルムの所に駆け寄ります。パードリックは、家の近くで佇んでいるコルムに近づきます。

 

コルムはパードリックに話しかけます。「犬の世話をしてくれてありがとう。」そして「ロバのことはすまなかった。」毒殺しようとしたわけではないことをパードリックに告げ、そのことを謝罪するのですが、パードリックはその言葉を受け入れることができません。パードリックは「もう戻ることはできない」と言ってその場から去っていきます。

 

 

カインとアベルの物語を思い出していただきたのですが、カインはアベルの捧げものを喜んだ神に対して、良くない考えを持ってしまいます。「公平、公正なはずの神が片方だけをひいきしている」カインはそう考え、褒められたアベルに憎しみの感情を持ってしまい、彼を殺します。

 

パードリックとコルムもこの関係に似ているような気がします。カインがアベルに嫉妬と羨望の感情を向けるのと同じように、パードリックはコルムに、一方的な友情と関係の修復を求めます。

 

コルムが「神」によって祝福されたかは分かりませんが、少なくとも彼は正直に付き合えない理由や、自分を守るための方法(指を切る)を公然の場で宣言しています。また意図しなかったロバの死亡についても率直に謝罪しています。

彼はただ、自分に残された時間を最大限に活用したかったに過ぎないのです。

 

何度も何度も「関わって欲しくない」と言っているにも関わらず、パードリックは自分の考えを替えることができませんでした。これはカインがアベルに対して抱いた感情を抑えることができなかったことと同じではないでしょうか。「褒められてよかったね、ぼくも褒められるように頑張るね」のような感情をカインは持つことができませんでした。

 

パードリックもコルムの側に立つことができませんでした。「自身の生き方を見つけたんだね、ぼくも自分の時間を大切にするね」という感情を持つことができたなら、パードリックはこのような結果を迎えることにはならなかったでしょう。

 

しかし、みなさまご存じのようにカインとアベルの物語は殺人という最悪の結果を迎えます。つまりこの「イニシェリン島の精霊」という物語も最悪の結末を迎えなければならない宿命を背負っているのです。

 

カインが神から罰を受けて永遠の呪いを受けるのと同じように、パードリックも「もう戻れない確執」に支配され、親友コルムとの闘いに身を投じることになるのです。パードリックとコルムとの永遠の戦いが始まるという訳です。

 

 

カインとアベルの物語を参考にしましたが、同時に男女間のトラブル、特にストーカー問題をも包含しているような気がします。一般的に言うと、女性(コルム)にはもう愛情もなく別れたいにも関わらず男性(パードリック)は、話せばわかる、昔のような関係に戻れるはずだと考え、暴走するようなものです。パードリックの考えは、現在では全く的外れの迷惑行為ということになるのかもしれません。

 

さて、先にも述べたように、この物語はただただ仲が悪くなっていく展開で、救いようのないストーリーなのですが、ゴールデングローブ賞の受賞に続き、第95回アカデミー賞の9部門にノミネートされたようです。

 

美しい島の風景やその時代の風物が情緒豊かに描かれていて、アイリッシュミュージックが好きな私にはとても楽しめた作品でした。しかしながら、西洋的な価値観が全体的に重々しさを与えて、見続けるのが辛くなってきます。

 

先にお話ししたように、カインとアベルの物語を現代風に大きくリメークした寓話であると考えると、あまり苦にならずに最後まで鑑賞できるかもしれません。あまりリアルに考えない方がいいような気がします。参考までに…。

 

 

私の近所、川崎チネチッタでは2023年2月22日まで公開されています。よろしければ是非ご覧ください。

 

 

 

79,心理学で読み解くアニメの世界

          心理学で読み解くアニメの世界

              「カラフル」

 

第二回

 

前回は兄「満」について考えてみました。今回は先ず母親を取り上げたいと思います。「真」の母親は確かに不倫問題を抱えていました。物語の中で「ぼく」はプラプラからその真実を告げられるのですが、プラプラはその背景までは教えてはくれません。物語の終盤近くになって、ようやく不倫エピソードの真実が示されることになります。

 

その中で母親は、姑との不仲があるにも関わらず懸命に介護をして見取っている事実が語られます。理解し合えなかった姑との関係や、介護に無関心な夫との関係に疲れた母親は、精神的に追い詰められ躓きます。その後心療内科を受診するのですが、そこで処方された薬がこの物語を引き起こすことになるのです。

 

クラスの中でいじめの対象であった「真」は、ひろかの援助交際現場を目撃してショックを受けます。そしてあろうことか母親の不倫現場にも立ち会ってしまいます。父親は母親の不倫が自殺の原因であると考えているようですが、それだけではなく、ひろかの援助交際も原因の一部だったのかもしれません。

 

少なくともこの時の「真」は、母親に対して神聖な存在としてのイメージを持っていたのではないでしょうか。母親の見たくない姿を目撃したことで、絶望を感じてしまったことは、自殺の大きな引き金であったと考えられます。いずれにしても、「真」も様々な出来事に追い詰められて自暴自棄になっていったのでしょう。

 

 

さて、母親のイメージとはどのようなものがあるでしょう。深層心理学にはグレートマザーという考え方がありますので、ここでご紹介しておきましょう。母親とは子供を生み育て、無償の愛を捧げる神聖な存在であるとする考えがあります。確かにそれは間違ってはいないと思うのですが、母親にはもう一つの側面もあるでしょう。

 

子供が大切であるがゆえに誰にも渡したくないという思いから、子供を囲い込み独占し、支配しようとします。無償の愛のはずが、代償として自分に従うように仕向けたりもします。子供が意志を持ち始めると、それを阻害しようとすることもあるでしょう。子供にとってはアンビバレント(両極端)な性質も持ち合わせているのです。

 

この「カラフル」のお母さんは、慈愛に満ちた母親のイメージで描かれているように感じます。無償の愛を捧げなければならない息子が死んでしまうという悲劇と、一転してその息子が息を吹き返すという奇跡に遭遇し、お母さんはどうしていいか良く分からないまま時間が経過していきます。

 

「真」の中の「ぼく」は母親の不倫を認識し、母親を蔑むようになります。厳しい視線を受ける母親は、自分の行動が原因であること承知しているために、「真」の態度や言葉に対してただ耐えることしかできません。では、母親は何か申し開きができる立場なのでしょうか。

 

言い訳を並べたところで「ぼく」は受け入れないでしょうし、他の家族メンバーも受け入れるのは難しい気がします。ただ耐えることしかできない存在として描かれている母親ですが、むしろその態度こそが「真」を適切な場所へと導いたのではないでしょうか。結果として「真」は家族に救われることになるのです。

 

 

一方、この物語に出てくる父親はどこか影の薄い存在として扱われています。父親は何を考え、家族をどこへ導こうとしているのでしょうか。この家族は、現代にありがちな「母親中心」の家族の典型として描かれているようにみえます。

 

かつて父親は、乗り越えなくてはならない壁のような存在として考えられていたところがあったと思いますが、現代社会の中においては、そのような壁は必要なく、むしろ子供が精神的にも身体的にも、立派に成長することを「援助」することが、父親の役目として強調されているように感じられます。見本となる父親像が見えにくい時代といえるのかもしれません。

 

そんな中でも「真」の父は頑張っている方ではないでしょうか。プラプラは、父親のことについてあまりいいことを言っていませんが、父親は自分の立ち位置を良く知っていて、無理をせず、しかし家族のために共に時間を使うことの意味をよく知っているようです。父親は「自分が考える父親」としての責任を果たしたいと考えているのではないでしょうか。

 

「ぼく」が父親と釣りに行く場面があるのですが、その場面で父親は、「お母さんにすべてを任せてしまって申し訳ない」気持ちであることを「ぼく」に告げます。そしてその事と「真」のことで、お母さんはギリギリのところにいることも承知していると言います。

 

良いか悪いかはさて置き、父親は母親の行いなど承知しているし、とっくに許していることが暗示されているように感じます。父親は暗に「人の心に寄り添う」ことの大切さを「真」に伝えようとしているかのようです。

 

 

さてこのように兄、母親、父親という家族の成員について少し細かく見てきましたが、家族を一つの社会的な単位として捉え、家族間の人間関係を細かく見ていこうとする態度は、個人主義的な伝統的カウンセリングとは若干異質なものといえるかもしれません。

 

これは、ここ50~60年の間に発展してきた考え方であり、家族を一つの社会的システムと考えることから、「家族システム論」といわれています。元々はベトナム戦争(1955~1961アメリカ実質参戦~1975)を契機に、その帰還兵を対象とした様々な心理療法の一つとして考案されたもので、マインドフルネスもそのような療法の一つといえるでしょう。

 

患者の症状が良くなり、家族が入院中の患者の元を訪問することはよくあることです。しかし家族による面会中、あるいは家族が帰ると急に患者の状態が悪くなるケースがしばしば起こりました。

 

また一旦退院してから、さらに状態を悪化させて再入院するケースも多く観察されたようです。落ち着いた環境の中では平穏に暮らせるのに、家族が周りを取り囲んだ途端に、症状を悪化させるという現象が起こってしまうのです。

 

安心できるはずの家族が関わった途端に、状態を悪化させる原因は一体何なのでしょうか。多くの心理療法家たちがその謎の解明に取り組む過程で「家族の在り方」に何か問題があるのではないかという仮説が立てられました。

 

創成期には家族の対話を録音・録画、またマジックミラー(ワンウェイミラー)を使用し、その背後で専門家による観察や、面接室に電話を置くなどして、家族の関わり方全体を、トータルで検討する方式が取られました。

 

家族心理学(家族システム論)では、このような面接形態を基本としているのですが、日本には1960年代に導入されて以降、このようなやり方をしている組織は現在ほとんどみられないようです。

 

しかし家族を一つのまとまりとして集団面接する姿勢は変わっていません。それぞれの行動観察をもとに、その場でフィードバックされるような構成であるため、より治療的な側面があるといえるでしょう。

 

当然のことながら家族の最小単位は夫婦であり、カップルカウンセリングが基本ですが、家族成員それぞれが所属している原家族を考慮するため、世代間や兄弟姉妹の影響なども考慮の対象となってきます。

 

 

ではこのような視点でこの家族を見てみると、どのような特徴がみられるでしょうか。「真」にとっての兄は無関心でイヤミな存在、父親もまた無関心で家のことを省みることもしない、母親だけが一人崖っぷちギリギリの所をさ迷い、途方に暮れていました。

 

それぞれの内面には人に言えないこと、言いにくいことがあり「ぼく」はその事実に次第に気がつき始めます。母親は申し開きできないことをしてしまったと後悔していること、家族や妻のために力になれなかった父親の気持ち、弟のことを心配しながらも、進学のためにかなりの我儘を聞いてもらっている兄。

 

しかしそれぞれの心の奥底には、「真」を心配する気持ちが満ち溢れていることを「ぼく」は知ります。「真」の進路について家族が話し合う場面は、この物語の大きなターンイングポイントであり、最も重要な家族の関わりであったといえるのではないでしょうか。

 

 

同じようなことは学校の中でも起こっていて、唱子やひろか、早乙女君との関わり方も変化してきます。これは学校成員として、お互いに影響を与え合うことによる変化の一つであり「学校システム」(友人関係)の変化とでもいえるでしょう。

 

「真」の人生の中では、親友といえるような友達が一人もいなかったことを、「ぼく」はプラプラより聞かされていました。「真」として生活していくうちに、「ぼく」は「真」とは性格や雰囲気が相当違うという事に、周りの反応から気づいていきます。

 

「真」の人生が新しく動き出した…、といえるのかもしれません。すると同級生の中に、「真」を気にかけ見つめていた人たちが「真」に対して反応し始めます。早乙女君と唱子、ひろかです。

 

自殺を遂げるまでの「真」は、意識して自分を変えることができなかったのでしょう。しかし生まれ変わった「ぼく」が、新しい人生を動かし始めることで、それが周りに伝播し、多くの人たちの心や態度を変化させることになります。その結果、周りの人々に「自律的」な変化を起こしたといえるのではないでしょうか。

 

 

ではここで「唱子」について考えてみたいと思います。「唱子」はとても不思議な存在です。親友というよりも、むしろ「ぼく」にとっては、なんとなく煙たい存在といえるでしょう。当初シャドー(本来シャドーは同性の嫌な人)のような要素を感じたのですが、何度か映画を視聴しているうちに、やはりアニマではないかと思うようになりました。

 

「ぼく」の位置からは見えにくいので「唱子」の立場から「ぼく」の自殺以前の時間軸で考えてみると、面白いことが見えてくるような気がします。物語の終わり近く、唱子の口から「あなたは命の恩人」と述べられているように、唱子にとっての「ぼく」は実は彼女にとってのアニムスだったのではないかと思えるのです。

 

「真」はずっと唱子に霊感を与えていて、唱子にしてみれば自分に無い側面を示してくれる「真」の存在は、極めて大きかったということなのだと思います。しかしその「真」が、別人のように変化した様子を目の当たりにして「セミナー行った?催眠療法受けた?」と尋ねたくなるのも無理はない気がします。「以前の真」が消えてしまったのですから…。

 

唱子は「真」の人格が変わった原因がとても気になります。彼女にとってそれは、自分の人生に影響を与える程の極めて深刻な問題だったからでしょう。映画の最後、「ぼく」が屋上にいるプラプラのところへ行く前に、早乙女君に「僕の様子が変わっても友達でいてね」と伝える場面があります。この時「ぼく」はまだ「小林真」が「ぼく」だとは気づいていません。

 

しかし美術室で唱子と話しているうちに、自分こそが「小林真」であることに気がつきます。唱子が「本来の真」を連れ戻したといえるのではないでしょうか。二人は深いところで繋がっているかのようです。

 

自分の罪と向き合い、家族や早乙女君とこれからの人生を展望する時、「真」は「唱子」の深い眼差しを意識せざるを得なくなるような気がします。「真」にとっても「唱子」は必要な存在になっていくのでしょう。そういう点で言うと、「唱子」は破滅的な「ひろか」とは、その対極にあるといえるような気がします。

 

ところでアニマ、アニムスについて説明していなかったので、ここで少し触れておきます。ちょっとスピリチュアルな話なのですが、魂はもともと雌雄一体の完全な存在と考えます。人として生まれるとき、男か女として生まれてくるわけですが、その時魂の一部と分離することになります。

 

結果として、自分の魂と対を成す存在が同時に生まれてくることになります。そういった存在のことをアニマ、アニムスと考えるわけです。元々一つなのだから、もう一度一つになろうとする…。物語に登場する主人公の男女のことを

アニマ、アニムスと考えるのは、そういう考え方が根底にあるからといえるでしょうか。

 

 

さて最後に、ストーリーテラーとしてのプラプラについて検討しましょう。プラプラはもちろんすべてを知っているわけですが、最初からすべてを「ぼく」に伝えることはしていません。真実を知るためには順番が大事であるということなのでしょう。

 

『父親は利己的で母親は不倫しており、兄の満は無神経な意地悪男のようで、学校に行ってみると友達がいなかったらしい真に話しかけてくるのは変なチビ女だけ』というプラプラのガイドは、客観的には真実であるけれども実はそれは氷山の一角であり、その奥には簡単には推し量れないものが存在しているのです。

 

それを「ぼく」は体験的に探っていくわけですが、「ぼく」の視点は「灰羽連盟」の灰羽たちと同じではないでしょうか。プラプラは、タイプは違うけれども同じく「灰羽連盟」の「話師」と同じような役割を担っているのでしょう。プラプラは子供の姿をした賢者といったところでしょうか。

 

また、プラプラは賢者であると同時に、トリックスターの要素も兼ね備えているといえるかもしれません。トリックスターとは直接的には関与しないものの、大きな転機をつくるキーパーソンのことを指します。「より高所から見つめている「もう一人の自分の視点」のことを「メタ認知」と言ったりしますが、「ぼく」が「小林真」であることに気づくことでプラプラは消えてしまいます。

 

プラプラの仕事が達成され、その役割が終わったことで、ぼくの中にプラプラが統合されたと考えると分かりやすいかもしれません。「ぼく」を導き、気づきを与えることがプラプラの仕事だったとすると、プラプラは自分の中にある「もう一人の自分の視点」であったと考えることもできそうです。

 

プラプラは決してスピリチュアルな存在ではなく、自分をレスキューするために自分が生み出した「もう一人の自分」である。そう考えるとプラプラは「真」が自殺するまでの出来事はしっかり記憶していても、「ぼく」として息を吹き返してからの経験は無いことになります。

 

「ぼく」が今経験していることが未知の出来事であるということと同じように、プラプラもまた「ぼく」が修行を成功させることができるかどうか不安だったに違いありません。しかしプラプラは「ぼく」が修行を成功させる自信があったのではないでしょうか。それは「ぼく」だけの問題でなく、プラプラにとっても存亡の危機だったのですから…。そんな風に感じているのは、筆者だけではないはずです。

 

苦しみと一体化していると(取り込まれていると)、その構造が見えなくなってしまいます。いわゆる視野狭窄の状態といわれるものです。しかし少し離れた場所から「観察」することで、今まで見えなかったものが見えてきます。自分だけではなく、他人の気持ちにも焦点をあて、その気持ちに気がつくことが何よりの「修行」といえるのかもしれません。

 

「ぼく」は家族の想いや、唱子の想い、ひろかや早乙女君の想いに触れて自分を深く見つめ直すことができたのでしょう。このプロセスによって、ようやく「ぼく」は「真」と、さらに「賢者プラプラ」とも統合できたといえるのではないでしょうか。

 

 

「カラフル」はファンタジー的な要素をもった物語ですが、同時に極めて現実的な出来事としてみることもできます。「当選」によって修行する機会が与えられたという設定も、自殺未遂で息を吹き返してから記憶障害となるケースを書き換えたものと考えることもできるでしょう。

 

一時的に記憶を失ってしまうことを、解離性健忘といいますが「ぼく」はこの解離性健忘の状態にあったといえるのではないでしょうか。解離性障害とは、器質的な異常がないにも関わらず、意識や同一性の障害が起こるものをいい、解離性健忘はその典型とされています。

 

外傷的で強いストレスを伴うできごとに遭遇した後などに、そうしたできごとや自分に関する基本的な情報などを思い出すことができなくなる症状を指します。つまり症状が消え、記憶が戻ることで、死にたいほどの感情も蘇ってくるわけです。

 

抱えきれない苦しみに、「真」は一度押しつぶされました。しかしゆっくりと自分を取り戻すことで、押し寄せる苦痛の嵐からは解放されたのではないでしょうか。この物語は、「ぼく」がもう一度人生をやり直すために作者が与えた再生のプログラムであり、その視線はどこまでも優しく温かさがあふれています。

 

思春期・青年期の若者が読むことを前提に書かれたこの小説は、もちろん彼らを応援していますが、決して力強く背中を押したりはしていません。「ゆっくりでいいんだよ」という作者のメッセージは、さわやかな心地良さを感じさせてくれるのではないでしょうか。

 

 

では、また。

 

 

 

78,心理学で読み解くアニメの世界

          心理療法で読み解くアニメの世界

               「カラフル」

 

第一回

 

今回は2022年7月3日の勉強会で取り上げたアニメ映画「カラフル」について、その時に使用した資料を再編集して投稿したいと思います。原作は森絵都、監督は原恵一です。一度死んだ「ぼく」がもう一度人生をやり直すことで他者の心に深く触れていくという、人生の再チャレンジ物語です。

 

では先ず、物語について軽く触れておきましょう。一度死んだ「ぼく」は、天使に「抽選にあたりました」と言われ、「前世の過ちを償う」ために下界で誰かの体に乗り移って過ごす「ホームステイの修行」を行うこととなります。「ぼく」の魂は自殺を図った「小林真」という中学三年生の少年に乗り移り、「ぼく」の「修行」がスタートします。

 

ガイド役の天使によると、父親は利己的で母親は不倫しており、兄の満は無神経な意地悪男のようで、学校に行ってみると友達がいなかったらしい真に話しかけてくるのは変なチビ女だけですが、「ぼく」が真として過ごすうちに、しだいに家族やクラスメイトとの距離が変ってくる、という内容になっています。

 

「修行」する理由は、「ぼく」が「かつて犯した罪を償うため」だといいます。つまり、過去の記憶を失った「ぼく」は、「小林真」の体を通して、「ぼくの罪」を思い出さなくてはならないのです。しかも期間が限られています(約半年?)。一見すると、ちょっとしたミステリー仕立てになっていて、私たちはいつの間にか「ぼく」の視線を持って、この世界に入り込んでいきます。

 

「ぼく」が犯した≪罪≫とは? 

なぜ「ぼく」が≪当選≫した(選ばれた)のか? 

なぜ「真」の体にホームステイすることになったのか? 

その意味は何なのか?

 

これらの事を検討すると、思春期を迎えた若者たちが直面する社会的、精神的な困難が見えてくるような気がします。それらの困難は日常的に起こり得るもので青年期、成人期や成人期後期であっても取り扱うのが難しいものなのではないでしょうか。

 

 

物語は「ぼく」の自殺をきっかけとして始まります。思春期・青年期の心性としては、哲学や宗教的な課題に興味を持ちやすい傾向がみられると共に、妙に理屈っぽいところが現れてきます。

 

それと共に、保護された家庭内から次第に未知の世界、すなわち大人の世界へ旅立つことが要求されます。人生とは一度きりの片道旅行であり、行き先が不明であるだけに、その内面は不安でたまらないといえるでしょう。

 

児童期ぐらいまでは、挫折しても親元に戻って、泣いて甘えることができるかもしれませんが、思春期を迎えてくると「頼ること」に対して、それを容易には受け入れられない心性が現れてきます。しっかりとした人格が形成されるには、まだ時間や経験が必要であるにも関わらず、未熟な自尊心がそれを阻んでいるのでしょう。

 

この時期の彼らは、極めて不安定で、危ういバランス(生と死、夢と現実、集団とその中の個人としての葛藤など)を保ちながら、歩みを進めているのです。彼らの意識は、常に半分それらの中(幻想的世界)に足を踏み入れているといえるのかもしれません。

 

 

ではここから、「ぼく」が経験する出来事について少しずつ考察をしてみたいと思います。まず「ぼく」は「小林真」という少年がどのような人物で、どのような人生を生きてきたのかを、記憶喪失者のように先入観の無い状態で探り始めます。当初「真」の家庭は何の問題もない普通の家庭のように感じていた「ぼく」ですが、やがて触れてはいけない「何か」をそれぞれが抱えていることに気がつき始めます。

 

一方学校では、奇異なものを見るような周りの視線から、「真」はいじめによって仲間外れにされていたことを「ぼく」は敏感に感じ取ります。そんな「ぼく」に話しかけてきたのが桑原ひろかと佐野唱子です。

 

 

桑原ひろかは「ぼく」との間に距離を置くこともなく笑顔で接してくることから、「ぼく」はほのかな恋心を抱くようになります。対して佐野唱子は「真」の変化が気になり、何が起こったのかを探ろうとして「ぼく」の様子を気に掛けます。少し煙たい存在ですが、唱子は「真」と「ぼく」に関心を持ち続けます。

 

ではここで、桑原ひろかについて焦点を当ててみたいと思います。「ぼく」が衝撃を受けるイベントに、ひろかの援助交際があります。「欲しいものはみんな高い…」と言って、大人の男性とのデートを屈託のない笑顔でさらりと言って退けます。援助交際の社会的問題はここでは一旦横に置いて、援助交際をしている「ひろか」という存在を検討してみましょう。

 

思春期・青年期の男の子にとって、密かに思いを寄せる女の子が、援助交際によってお小遣いを稼いでいる実態を目の当たりにすれば、当然普通の精神状態ではいられないということは、容易に想像することができるでしょう。「真」の精神的ダメージは計り知れないものがあります。では「ひろか」はどのような人物なのでしょう。罪悪感など、あるのでしょうか…。

 

ここで、ある古典的な物語が頭に浮かんできます。アヴェ・プレヴォーの小説「マノン・レスコー」(1731年)がそれです。主人公のマノン・レスコーは「ひろか」のモデルといえるかもしれません。ちなみに、同小説を基に制作された映画が「情婦マノン」であり、1949年ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞しています。

 

マノン・レスコーは美しく、天真爛漫な性格の持ち主として登場しているのですが、物質的な豊かさを好み、金銭的に援助してくれるお金持ちの老人などに身を委ねることに、特段の罪悪感を持つことはありません。もちろん、年の近い青年デ・グリューとの恋愛において思い悩むこともあるのですが、貞操観念が乏しい人物として描かれています。最後には青年との愛を貫くことになるのですが、その行動の破滅的傾向から、この作品は「ファム・ファタール(運命の女・男を破滅させる女)」を扱った文学作品とされています。

 

「ひろか」は、そこまで破滅的な性格付けがなされているわけではありません。終盤ではむしろ、彼女自身もとても苦しんでいることが語られ、そのことについて「ぼく」は「ひろか」に「みんなそうなんだよ、でも死んではだめだよ」と告げています。

 

いずれにしても「ひろか」という人物は、世の男性にとっては容易には受け入れ難い、永遠の難問を抱えた女性モデルの一つの形を成しているといえるのかもしれません。

 

 

そんな「ひろか」に心奪われ、彼女の後を追跡している時に出会ったのが早乙女君でした。同じ場所で二度も出会い、二度目の出会いの時には早乙女君から廃線の後を辿って公園へと誘われることになります。以前なら、そのような関係にはなれなかったのかもしれませんが、「ぼく」は早乙女君の誘いを受け入れます。

 

ユング心理学コンステレーションという考え方があります。この言葉はもともと星座を意味する言葉ですが、ここでは「偶然の中に一定の意味を見出す能動的な解釈」とでも言えばいいでしょうか。どんな人にでも偶然の出会いがあり、それを一期一会というのでしょう。その出会いに意味を見出し、新たな関係性を獲得することで人はより深く、大きく飛躍できるのではないでしょうか。

 

早乙女君としては、最近様子が変わった「小林真」に声をかけてみたくなったのでしょうし、「ぼく」は自分に関心を持つ者など誰もいないと思っていたところに声をかけてきた早乙女君という存在に興味を持っただけなのかもしれません。「準備された偶然(早乙女君との出会い)」が「準備された偶然(ぼくの受容的心情)」と響きあった瞬間といえるでしょう。

 

いずれにしても二人は、偶然の出会いによって友達となり、真綿が水を含むように親交は一気に深まります。「ぼく」にとって早乙女君という親友の獲得は、自己の成長にとって決定的ともいえる出来事だったのではないでしょうか。早乙女君との交友が、さらに「ぼく」に変革を与えていくことになります。

 

 

ではここで、家族の存在に焦点を当ててみましょう。「ぼく」には満という兄がいます。初めのころは愛想の無い兄として描かれていますが、誰よりも「ぼく」を気にかけています。反発もしますが、兄弟としての絆は深いものがあるように感じられます。

 

兄弟姉妹には様々な葛藤があります。成績の良い悪いに始まり、生活態度が良い悪いなど、あらゆる分野において、親からの比較の対象となっています。そして悲しいかな、比較されるとそこに優劣が発生し、そのことで一喜一憂してしまうことも事実でしょう。

 

そんな兄弟間の軋轢について、ユング心理学ではカインとアベルの物語を元に、カインアベル元型というものを想定しています。以下、カインアベル元型について少し触れていきます。

 

カインとアベルの物語は旧約聖書創世期の中に出てきます。彼らはエデンの園を追放されたアダムとイブの子供たちです。兄カインは農耕による産物を神に捧げ、弟アベルは羊飼いとなり育てた羊から生まれた初子を捧げます。神はアベルの捧げものを喜びましたが、カインの捧げものには関心を示しませんでした。

 

嫉妬したカインはアベルを荒れ野に呼び出し、彼を殺してしまいます。神はカインに「アベルはどうした?」と尋ねますが、カインは「知りません」と答えます。すでにことの仔細を知っている神は、カインに罰を与えます。すなわちカインは追放され、放浪者となり、彼を殺す者が七倍の復讐を受けるという呪いが掛けられ、誰からも殺されないよう「神の印」を付けられたのです。

 

神の偏った愛(あえて偏ったと言っておきます)に対して不満の感情が抑えられなかったカインは、嫉妬のあまり弟アベルを殺してしまうという兄弟殺しの罪を犯してしまいます。ではなぜ、神はアベルの捧げものを喜び、カインの捧げものに関心を示さなかったのでしょうか。

 

…悲しいかな、それは誰にも分からないことでしょう。神は気まぐれ、とだけ言っておきましょう。

 

神がアベルの捧げものを喜んだ時、カインは弟の名誉に対して共に喜ぶことができたのではないでしょうか。神は本当にアベルを褒め、カインを貶めたのでしょうか。…これはなかなか評価の難しい問題であると思いますが、皆さんはどのように考えますか。

 

神が絶対であるならば神の言葉はすべてを正しく言い表しているのでしょう。つまり「アベルの仕事は素晴らしかった」のが事実だとしても、神は決して「カインの仕事はひどかった」とは言っていません。「自分は認められなかった」と勝手に思い込んでいるのはカインなのです。カインこそが、勝手な思い込みによって自らの悪意を増大させたのではないでしょうか。

 

 

こういった兄弟間の諍いを扱った物語は日本の神話にもみられます。古事記の中に「海幸・山幸」という有名な物語があるのですが、カインアベル元型と比較してみると面白いのではないかと思いますので、ここでご紹介しておきましょう。

 

ニニギノミコトコノハナサクヤヒメとの間に生まれた三柱の御子である火照命(ホデリノミコト)、火須勢理命(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホヲリノミコト)のうち、海幸・山幸の物語はホデリノミコトとホヲリノミコトの物語となっています。

 

ホヲリノミコト(山幸彦)は兄のホデリノミコト(海幸彦)に対して幸換(さちが)えを求めます。幸とは収穫物のことであり、同時にそれを取る道具をも意味します。幸換えを承諾させるとホヲリノミコトはホデリノミコトから釣り針(鉤・ち)を借り受けます。

 

しかし海に出てもまったく魚が釣れず、しかも釣り針まで失ってしまいます。ホデリノミコトはホヲリノミコトに幸換えの中止を申し入れます。道具は本来の所有者の手にあるからこそ、威力を発揮するものであると告げます。

 

ホヲリノミコトは仕方なく釣り針を失った次第を告げると、ホデリノミコトは釣り針を返せと迫ります。ホヲリノミコトは帯びていた剣でたくさんの釣り針を作り償いとしましたが、ホデリノミコトはなおも本物を要求します。

 

困り果てたホヲリノミコトは、泣きながら浜辺に座り込んでしまいます。すると塩椎神(シオツチノカミ)という名の神が現れ、无間勝間(まなしかつま)の小船(をぶね)で「綿津見神(ワタツミノカミ)の宮」に行くように教えます。

 

ホヲリノミコトは海神の宮で、海神の娘トヨタマヒメと結婚し、三年ばかりを過ごします(異界淹留譚・いかいえんりゅうたん)が、失った釣り針のことを思い出したホヲリノミコトは、海神の助力で釣り針を探し出し、地上に戻ることになります。

 

海神はホヲリノミコトに釣り針を返す際、そこに呪いを掛ける方法を教え、さらに潮の干満を操る二つの宝珠(塩盈珠・しほみつたま、塩乾珠・しほふるたま)を授けて、ホデリノミコトが服従するよう仕向けます。

 

地上世界に戻った山幸は、呪いの掛かった釣り針をホデリノミコトに返します。するとホデリノミコトは呪いを受けて貧しくなり、また荒れすさんだ心を起こしてホヲリノミコトのもとに攻めてきます。そこで、ホヲリノミコトは二つの宝珠を操って、ホデリノミコトを溺れさせ、ついにこれを屈服させことになった、というのが海幸・山幸の物語です。

 

 

さて、カインアベル原型では「羨望」がテーマとなっていたように思います。「うらやましい」と思う気持ちは意欲を掻き立てることもありますが、人を貶めようともします。受け手の心情が未熟であるのか、神の偏った愛情表現に問題があるのか…。

 

神は恵みを与えてくれますが同時に試練も与えます。豊かな自然は人間の生存に必要不可欠ですが、時折荒々しく牙をむきます。そういった恐ろしいし自然現象に「偏っている」と言ったところで、我々の言うことを聞いてくれるわけではありません。いくら神に文句を言ったところで私たちの都合などお構いなしです。受け取る私たちの心の問題です。

 

一方「海幸山幸」の物語では、兄が弟の失敗を責め立てます。たまりかねた山幸は、一旦は退避するものの知恵をつけて海幸を征服します。弟の戯れに付き合って大事な針を貸したのは兄です。この時点で兄はトラブルを抱えたことになるでしょう。案の定針は失われ諍いが始まります。

 

弟からの「幸替え要求」が親密さゆえの甘えであると考えれば、兄はそれを安易に受け入れてしまったことになります。その結果弟は大事なものをなくす…。どこの家庭にも起こりうる、日常的なハプニングの一つではないでしょうか。

 

いろいろなテーマを抱えた物語ではあると思いますが、強いて言えば年長者の寛容さを説いているようにもみえます。こらえ性の無い兄が執拗に返還を求めたことが、弟の復讐心に火をつけたということなのでしょう。親密であるが故に恨みも大きくなってしまう…。怖いですね。

 

当然「満」や「真」もこれらの葛藤を抱えていたのでしょう。冒頭、「兄の満は無神経な意地悪男」と紹介があるように、「真」にとっては苦手な存在であったようです。しかし後段、進学の話を真剣に家族で話しあうことで、それぞれの想いが伝わるようになります。

 

「親密であるが故に恨みも大きくなってしまう」と先ほど言いましたが、きっと逆もまた真なり?…。強い恨みを抱えていても、親密さがあるからこそ理解し合えるものでもあると信じたいものです。

 

 

では今回はこの辺で。

 

 

 

77,心理学で読み解くアニメの世界

          心理学で読み解くアニメの世界

           「君を愛したひとりの僕へ」

 

 

前回に引き続き、今度は「君愛」について考察をしてみたいと思いますので、よろしければしばらくの間お付き合いください。それでは先ずは物語について少しまとめておきましょう。

 

こちらの暦は、幼少のころ父親に引き取られることで「僕愛」の世界からは大きく道筋が違ってきます。父親が務める虚質科学研究所を日常的に出入りしていることから、同じような境遇の女の子栞(しおり)と知り合います。栞は研究所長の娘で、暦の父は副所長という関係です。

 

幼いころに知り合った彼らは、いつも行動を共にするほどに関係を深め、お互いに恋心を感じています。そんなある日、暦の父親と栞の母である所長との再婚話が持ち上がります。嬉しい気持ちはあるものの、もし再婚が成立するとお互いが兄妹となってしまいます。

 

法的に兄妹となってしまうと、将来結婚できないのではないかと思い込んだ二人は家出をします。しかしこれはすぐに挫折し、今度は二人の親が結婚しない並行世界への逃避行を考えます。二人はもともと転移しやすい能力があり、転移装置の力を借りなくても並行世界へと転移してしまいます。

 

一時的に並行世界へと転移する二人ですが、なんとそこで栞は交通事故に遭ってしまいます。現実世界に戻った暦は栞が息をしていないことを知り、とんでもないことが起こってしまったことに気づきます。

 

その後栞の意識が「交差点の幽霊」として、その場所から永遠に抜け出せなくなってしまったことを知り、暦は父と栞の母に対して生涯をかけて栞を助ける方法を探し出すことを誓い、研究者の道を目指します。

 

暦は大学へは行かずに父の研究所で研究を重ね、ある画期的な理論を提唱します。天才暦の誕生です。暦の研究は鬼気迫るものがあり、周りの者が心配するほどで、それを見かねた父は密かに暦の助手を迎える手はずを整えます。高校の同級生和音の登場です。

 

和音は高校の時から暦に対してライバル意識を持っていて、高校卒業後、暦が研究者として成功していることを知り、彼と共に研究したいと思っていたようです。彼との研究は和音の希望でもあると父親に告げられ、暦は和音を研究のパートナーとして受け入れます。

 

暦は自分の研究が栞を助けるものであることを和音に伝えます。栞は先の事故で行き場を失い、あの交差点から永遠に出られなくなっていて、その解決のためには新たな理論と技術の構築が必要であると暦は考えています。和音は暦の気持ちを受け入れ、彼と共に栞を助ける方法を模索します。

 

暦と和音の研究人生は長く続きます。この世界の和音は、暦に対する愛の気持ちはあっても、暦の栞に対する思いを尊重して一歩引いた対応をします。結果として二人は結婚することはありませんでした。

 

晩年になり暦は栞を助ける方法を見つけ出します。しかし暦自身にとても大きな影響があることを知り、その方法の実行を最晩年の時まで待つこととします。つまり、栞と共に二人が決して出会うことの無い並行世界へと転移することで、事故の起こらない新たな世界を再構成するという方法で、再構成後はお互いの記憶を失ってしまうというものです。

 

二人は60年後にあの交差点で会おうと約束をして、その方法を実行します。すると、すべての並行世界の暦の記憶から栞の記憶が消えてしまいます。その後、交差点のイベントへと場面が進むのですが「僕愛」の世界の暦は、ピルケースを拾う同年代の女性と出会います。懐かしさを感じるものの、彼女が栞であることは分かりません。しかし彼女が事故で死ぬことのなかった世界を幸せに生きてきたことは伝わってきます。「君愛」の暦の願いが叶い、映画は終わりを迎えます。

 

 

それではこの物語に登場する暦の行動を見てみましょう。彼は幼く思慮の浅い行動によって、大切な栞を事故に遭わせてしまいます。戻るべき肉体を失い、栞は永遠に交差点の幽霊として彷徨うことになります。暦は責任を感じ、栞を助けたいと思って、研究者の道へと進んでいきます。

 

その後彼は和音と出会います。研究だけでなく私生活でも結びつきを深め、事実上の夫婦関係となっても、和音は暦に結婚を強要しませんでした。和音は…、というより、なぜ二人は結婚しなかったのでしょうか…。

 

栞を助けたいという一心で続けてきた研究が成果を上げようとしている時、暦はその方法を実施すると、自分の中にある栞の記憶が消滅してしまうことに気づきます。何よりも栞のことを大切に思っている暦は、その方法の実施を人生の最晩年まで待つことにし、そして実行します。

 

暦は栞に対する償いの気持ちが強く、そのために一生をかけて栞を救うことだけに人生を費やしてきました。そして長年の希望を叶えるためには、栞との思い出を放棄しなければならないという、究極の選択を迫られることになります。

 

他者の命(ここでは栞の肉体であり魂そのもの)のために、自分の命(ここでは暦と栞の想いでのすべて)を失うことができるのだろうかという命題が、この物語の根底に流れているように感じます。そしてその命題は、暦だけが負っているわけではありません。

 

和音は高校の時から暦に対してライバル意識を持ち、優秀な大学などへと進んでいきます。大学へは行っていないはずの暦が学術的な業績を上げていることを知り、さらにライバル心を燃え上がらせ自ら研究所へと働きかけます。

 

暦は栞を助けるための優秀なパートナーとして和音を受け入れ、一方和音は自分の業績を上げるための刺激的なパートナーとして暦に近づいたといえるでしょう。二人はやがて暦の父の思惑通り深い関係へと進んでいきます。しかし暦が栞を大切に思っていることをよく知っている和音は、栞の地位を奪おうとはしません。

 

和音のポジションは、暦が栞に対して保持しているものと近似しているように感じます。つまり、和音は暦が成し遂げたいと思っていることが実現することを最優先しているということなのです。暦が自分の信じるもの(愛の対象)のために自己犠牲を惜しまないのと同様に、和音も愛の対象である暦のために自己犠牲を惜しんではいないという姿勢が、お互いに重なり合うように感じられるのです。

 

ストーリー説明の中ではお話していませんが「君愛」の暦が最後の方法を取る前に、晩年の和音は「僕愛」の和音に対して手紙を書いています。今までの経緯を伝えるとともに、「僕愛」の暦が交差点のイベントへ出かけられるように後押して欲しいと依頼します。60年前の約束が果たされることを願ってのことでしょう。「僕愛」の暦は和音に送られて交差点へと向かいますが、これも和音の自己犠牲の一端のような気がします。愛とは自己犠牲そのものなのかもしれません。

 

 

ここまで「僕愛」「君愛」という作品について、いろいろ思うところを書いてみました。「僕愛」では「すべての君」がキーワードとなっていて、どのような君でも愛することができるのか、ということがテーマとなっているのではないかということをお話してみました。

 

「すべての君を愛せるか」という問いに対しては、「愛せるに違いない」という力強いな反語的肯定文が浮かんできます。「僕愛」では、すべての君を愛することこそが自分の生きる道なのだ、という作者の強い意志が感じられると思います。

 

一方「君愛」では、愛する者のためにあなたは自己犠牲できるのか、ということがテーマだったように感じます。そしてこちらの世界でも「自己犠牲できるに違いない」という強い肯定的なメッセージが感じられるような気がします。「僕愛」では「愛」が、「君愛」では「勇気(自己犠牲)」が根源的なテーマとして取り扱われたのではないでしょうか。

 

 

さて現在、「すずめの戸締り」が公開されています。新海誠宮崎駿高畑勲細田守など、すばらしいアニメ作家達が活躍していますが、彼らももとは新人作家でした。多くの人々がアニメ作品を見るために映画館へ足を運ぶことで彼らは評価され、次の世代の作家たちも育つともいえるでしょう。

 

「僕愛」と「君愛」は、二つで一つの世界観を構成する珍しい作品となっています。こういった新しい試みというものは、作品の成否にかかわらずこれからも大いにチャレンジしてほしいものです。そのためには多くの人々が映画館へ足を運び、後進の育成に貢献することが大切なような気がします。

 

面白いことが重要なのはもちろんなのですが、それと同時に、日本のアニメ作家やアニメ業界の振興のためにも、ぜひ多くの人たちに劇場へと足を運んでいただきたいと思います。

 

ちょっと業界人ぽいことを書いてしまいましたが、筆者はただの一アニメファンでしかありませんのであしからず。実写にはない自由な映像表現と撮影技法にとらわれないストーリー展開など、投影される物語はどれをとっても作者の心理的テーマが現わされていて興味が尽きません。アニメ作品の心理的観察がこれからもテーマとなりますが、幅広く「物語」全般について考察を深めたいと思っていることころです。

 

 

最後に「僕が愛したすべての君へ」「君が愛したひとりの僕へ」ともに、原作がハヤカワ文庫(ハヤカワ文庫JA)から刊行されていることを指摘しておきます。筆者は見た後に気づいたのですが、ハヤカワといえばSF作品が多いことで有名でしょう。この両方の作品も、基本的にSFといえます。

 

Wikipediaによれば、当初SF作家のためのレーベルだったようですが、1995年からハヤカワ文庫JAというブランドで日本人作家(JAとはJapanese Authorの頭文字)の作品を取り扱うことになったそうです。ジャンルは問わないようですが、「ハヤカワ」といえば老舗のSF文庫としてのイメージが強いのではないでしょうか。個人的な印象に過ぎませんが…。

 

さて、今回取り上げた作品は、双方ともに「虚質科学」なる空想科学が強調されて気構えしてしまいますが、もっと気軽に見た方がいい気がします。「マルホランドドライブ」を例にお話したように、無数の並行世界を駆使すればストーリーを合理的に解釈することは可能かもしれませんが、それよりも人物の心情に注意を向けた方が楽しめるのではないでしょうか。

 

約一時間半の作品二本。時間に余裕のある時に、二本続けてご覧いただければと思います。続けて見ることでのみ得られる世界観があるような気がしますので、ぜひ一度トライしてみてはいかがでしょうか。

 

 

ではでは、今回はこの辺で…。

 

 

 

76,心理学で読み解くアニメの世界

          心理学で読み解くアニメの世界

           「僕が愛したすべての君へ」

 

 

「僕愛」「君愛」などといわれたアニメ映画二本が公開されました。どちらを先に見るかで映画のクライマクスの印象が違うということらしいのです。大きく二つの世界観を持った物語が双方に深く関わりつつ、全体で一つの物語を構成しているという大変珍しいスタイルの作品となっているので、ぜひ見ておきたいと思いました。

 

もちろん十分面白かったのですが「並行世界」という独特の世界観が、物語の理解を妨げている部分があったように思います。しかし「並行世界」があることによって生まれた物語でもあるので、集中して見ないと後れを取ってしまいそうです。

 

今回はこの二作品についていろいろ考察したいと思うのですが、物語が極めて複雑なので、かなり簡略化してお話しすることになるかと思います。また、映画を一度見ただけですので、記憶違いや思い違いも多々あるかと思います。その点どうぞご容赦願います。

 

では先ず「僕愛」のストーリーについてです。

 

物語は「虚質科学」なる学問によって「並行世界」との接触が実現可能となった世界が舞台です。主人公暦(こよみ)は親の離婚によって母親に引き取られ、中学を卒業し高校へ。するとそこで和音(かずね)という同級生の女の子に声を掛けられます。この世界から85離れた並行世界から来たと暦に告げますが、それは後に狂言だったことが分かります。

 

やがて二人は同じ大学、同じ職場へと進み結婚します。そして男の子が生まれます。男の子が五、六歳になったころ、家族で花火を見に行くのですが、その会場にナイフを持った男が現れ、男の子が襲われます。

 

この世界では暦が犯人に体当たりして男の子は一命をとりとめますが、並行世界では命を落とします。暦と和音は比較的簡単に並行世界へ行ける能力があるのですが、暦は最近和音の様子がおかしいことに気づき、和音に尋ねます。すると和音は子供を失った並行世界からやってきたことがわかります。

 

悲しみに打ちひしがれた並行世界の和音は、子供を求めてこの世界にやってきたのですが、暦に説得され、元の並行世界へと帰っていきます。

 

それから数十年、人生を終えようとしている老年期に、暦は記憶の無い予定があることに気づきます。その場所は自宅近くであるため、彼はその時刻に車いすで予定の場所へと赴きます。

 

そこは自宅近くの交差点で、暦は出会ったことのない少女の姿(幻影)と遭遇します。どことなく懐かしさを感じるものの、少女の姿はすぐに消えてしまいます。その場所から立ち去ろうとする暦は激しくせき込み、薬を飲もうとピルケースを取り出しますが、うっかり足元に落としてしまいます。

 

ピルケースが拾えず苦しんでいると、近くを通りがかった同年代の女性が暦に声をかけて、ピルケースを拾ってくれます。暦は礼を言うと「どこかで会ったことがあるのでは」と女性に語りかけます。

 

しかし女性は「お会いしたことは無いのでは」と答えます。落ち着きを取り戻した暦は「今は幸せですか」と尋ねると、彼女は「はい、幸せです」と答える。暦の人生がとても豊かで、充実したものであったこと伝わってきます。

 

この交差点のイベントは「君愛」との関りが大きい部分で、この部分だけではよく分からない構造となっています。いずれにしてもこの映画は、暦の人生の一つの側面を幼少期から成人期、老齢期に渡って表現しています。

 

 

さて、この映画を複雑にしている要素が最初にお話した「虚質科学」という概念です。例えば「忘れ物を見つけることが出来る場合」と「見つけられない場合」があるとすると、「見つられた世界」と「見つけられない世界」とが近似して隣り合っていると考えるそうです。

 

そう考えると並行世界は無数に存在することになり、和音が最初に言った「85離れている世界」はある程度遠いことになるのかもしれません。また、暦と和音は転移装置を使わなくても転移しやすい能力があるとされています。つまり、彼らはかなり自由に並行世界を横断できることになっています。

 

先にも話した通り、並行世界を行ったり来たりすることで、主人公暦は人の心の裏にある感情や、本当の想いというものを学んでいきます。ただ、これらは現実の世界でも十分に学ぶことができるもので、並行世界であることの必然性はあまり感じられません。

 

この物語の一番のポイントは、子供を失った並行世界の和音が、子供が生きている現実世界へと転移してくるところでしょう。並行世界の和音も暦が愛した和音です。自分の世界へ戻るよう促す暦に対して「あなただけ幸せで…」と妬む気持ちを返します。

 

並行世界であっても和音は和音であり“すべての君”が自分の世界で幸せに生きていてほしいと暦は願います。しかし“すべての君”が幸せな人生を過ごせるとは限りません。今見てきたように、子供を失った和音もいるのです。「僕愛」のテーマはまさにその部分にあるのだと感じました。不幸や絶望に苦しむ“すべての君”と「私自身」のありのままを受け入れられるのだろうかと…。

 

 

ところで、この並行世界という考え方ですが、少し思うところがあるので深堀してみたいと思います。

 

かつてデヴィッド・リンチ監督が「マルホランド・ドライブ」という映画を撮りました。この作品は大変難解とされた映画で、大きく前半と後半が倒置されているといわれています。確かに前後を入れ替えて考えてみると、物語の全容が何となく見えてはくるのでが、それでもすっきり理解することはできません。

 

リンチ監督はインタビューで「言葉で説明できるようなら映画監督にはなっていない」と言っているように、合理的に心の内が説明できないから映像作家になったという趣旨のことを答えています。つまりインタビューされても作品の本質については正確には答えられないということなのでしょう。言い換えれば、伝えたいことは映画の中にしかないということなのです。

 

なるほど、言われてみればその通りだと思いますが、それでもファンは作者が意図したことを聞きたいものなのです。詳しく話せなくとも、そのエッセンスを感じたいものなのです。しかし、リンチの作品はどれも理解が難しく、視聴者の創造性を刺激します。逆に言えば、それが彼の作品の大きな魅力なのだということなのでしょう。

 

私自身、この映画を「理解した」などと思いませんし、これからも理解できないと思っているのですが、ある人がyoutubeでこの映画についての新たな解釈の説明をしている動画に出会ったことがあります。その新たな解釈というのが「並行世界」という概念の採用です。

 

映画のストーリーについては、あまり詳しくは触れませんが、田舎から出てきた女優を目指す主人公が、たまたま知り合った記憶喪失の女性と一緒に、彼女に起こった喪失の原因を探り始めるというものになっています。原因を探るうちに、幻想的で不可思議な世界が展開されることになるのですが、一番の問題は、自分の「死体」を発見するあたりから、辻褄の合わない理解不能な物語が繰り広げられるということだと思います。

 

解説者は、これらの意味不明な物語について「並行世界」を想定することで、かなり見事に説明していました。つまり「生きている自分が、並行世界の死んだ自分の遺体を俯瞰している」といった感じです。その時は、なるほどと感心して聞いていましたが、よく考えてみると「並行世界」を想定すると「なんでもあり」の世界が構築できることに気がつきました。

 

時間軸を一直線の糸のようなものと想定すると、並行世界は幅広く織り込まれた布のようなものに例えることができるでしょう。布上のあらゆるポイントがお互いにつながっていると考えれば、確かに生きている自分が死んでいる自分を俯瞰するポイントがあるような気もします。

 

しかしこのような考え方は、現象を説明することは可能かもしれないのですが、なぜそのような現象が起きたのかという必然性についてはうまく説明できないように感じます。たまたまそれが起こっただけ、ということも一つの考えではあると思うのですが、もう少し出来事の理由を考えてみたいと思ったりもします。

 

生きている自分が死んでいる自分を俯瞰する意味、あるいはなぜその時その現象が起こったのか、みたいなものでしょうか…。いずれにしても「マルホランド・ドライブ」には、そういった不可思議な映像表現が満ち溢れていて、そう簡単に飽きることはないように感じているところです。

 

 

さて、話を「僕愛」に戻しましょう。「並行世界」については今までお話したように、なんでもありの「魔法の仕掛け」であり、冒頭からこの並行世界についての解説をすることで、多くの視聴者はこの複雑な時間軸や平行世界移動に思考を奪われます。

 

当初は物語を「理解」しようと必死にストーリーを追っていきますが、架空の科学であるため途中で挫折することになるでしょう。それよりも、この物語の核心的部分、すなわち“すべての君”とどのように関わるかという命題が浮かび上がってくるように感じます。

 

先にも書いたように「この並行世界の和音は受け入れられる」が「別の並行世界の和音は受けられない」といった、同じ人物のさまざまな側面を見ていくことになります。人にはいいところばかりではなく、イヤな側面も数多く存在するでしょう。それら「愛する人のすべての部分」をいかにして自分の中に統合していくのか…。

 

このアニメではイヤな和音をあまり強調してはいないものの、現実の中の人間には様々な性格や気質があります。愛した人のすべてを愛するということは言葉では簡単ですが、なかなか一筋縄ではいかないのも事実ではないでしょうか。

 

この世界の暦は、人生を通じて和音を愛し続けてきたことが分かります。「虚質科学」という架空の科学を題材にしていても、その中で描かれているテーマが愛する人との関りであると考えれば、このアニメはとても分かりやすい恋愛物語だったのだと理解できるような気がします。

 

 

さて、「僕愛」の最後には交差点でのイベントがあるのですが、実はこのイベントは「君愛」を見てからでないとなかなか理解しがたいパートとなっています。

 

この世界ではほとんど関わりのない少女の幻影との出会いなのですが、なぜか懐かしさを感じる暦。この一瞬こそが「君愛」の暦にとっていかに大切な出来事だったのか。次回の投稿では「君を愛したひとりの僕へ」について考察をしたいと考えていますので、よろしければぜひまたこちらへご訪問ください。

 

では。

 

 

 

75,心理学で読み解く映画の世界

            心理学で読み解く映画の世界

              映画「LAMB/ラム」

 

 

最近「LAMB/ラム」という映画を見ました。カンヌ映画祭で話題となったようで、公式ホームページを見ると、一見穏やかなイメージを与えますが、なかなかメッセージ性の強い映画であることを感じます。筆者は全く事前の予備知識なしに見たので、ある意味この映画のもつエッセンスをダイレクトに受け止められたのではないかと思っています。確かに衝撃的な場面もありましたが、見終わってみると、むしろ滑稽な印象の方が強かったように感じます。

 

今回は映画「LAMB/ラム」について思うところを書いてみたいのですが、まだご覧になっていない方にはご注意いただきたいと思います。当然のことながら映画の核心的なストーリーについて触れていきますので、ご興味のある方はぜひ本編をご覧になってからこの投稿をお読みいただきたいと思います。

 

 

では先ず、ストーリーを追いながら話を進めてまいります。映画に登場するのはほんの数人です。時代はほぼ現代、アイスランドの片田舎で羊飼いをしている中年夫婦の妻、夫、そして中盤から登場する夫の弟の三人です。

 

羊の出産の時期を迎えて夫婦は毎日忙しく仕事に精を出していますが、ある日生まれてきた子羊が「普通ではない」ことから、夫婦はこの子羊を家畜小屋から連れ出し、自分たちの寝室で世話を始めます。夫婦がなぜ子羊を自分たちの寝室で世話することになったのか…。それは子羊が半人半獣の姿をしていたからなのです。

 

夫婦は子羊に愛情を傾けます。それはあたかも自分たちの間に生まれた子供のように…。その後夫婦は生命力を取り戻したかのように、人としての活力を復活させます。しばらくご無沙汰であった夫婦の営みをも取り戻し、しばしの間二人は充実した時間を過ごすことになります。

 

しかし子羊は家畜小屋の羊から生まれたのです。子羊を生んだ母羊は連日夫婦の寝室の近くで鳴き声を上げ、子羊を返してほしいとの声を上げます。母羊の行動にいら立ちを感じた妻は、母羊を牧場の一角へ連れ出すとライフルで撃ち殺してしまいます。

 

そんな時、夫の弟が現れます。半分遊び人みたいな生活をしている弟は、転がり込むように兄夫婦の羊農場へやってきます。三人は昔を懐かしむように楽しい時間を過ごしますが、弟は夫婦が得体のしれない存在に心が支配されていることに心を痛めます。

 

たまたま妻が母羊を撃ち殺すところを目撃していた弟は、そのことを「出し」にして兄嫁に色目を使います。しかし妻は弟を部屋に閉じ込めその家から出ていくように促し、その後弟は静かに農場を去ります。

 

やっと落ち着いた生活を取り戻せると思ったのも束の間、子羊アダ(亡くなった娘の名前)と一緒に外出していた夫が、何者かに撃ち殺されてしまいます。銃声を聞いた妻は、夫の元へとやってきますが、瀕死の夫はやがて息絶えます。そしてただ一人、妻は成すすべもなく悲しみに打ちひしがれるのです。

 

夫を撃った犯人は、羊の姿をした神というイメージで描かれています。いわゆるパンという牧神が、自分の子供であるアダを連れ戻しにやってきたという解釈ができるのではないでしょうか。

 

牧神はアダの手を引いて山の方へ姿を消していきます。二人の姿が見えなくなった後、妻は夫の元に駆け寄り夫の最後を見届けます。カメラは悲しみの妻の表情を捉え続けて終幕を迎えます。

 

 

寓話というのは、過去の出来事などから教訓的にそのエッセンスを伝えるものだろうと思います。ここで重要なのは「教訓的」ということです。つまり何か意味あることを伝えるために、事の次第を分かりやすく昔話風に簡素化しているということなのです。

 

ラムという映画は登場人物が少ない分、それらが意味していることが何なのかがとても明確に伝わってくるように感じられます。例えば主役である夫婦は、アダムとイブに重ねることが出来るでしょう。ここでの夫(アダム)は、あまり深く考えることなく、ごく普通の日常を過ごしているように見えます。

 

しかし妻(イブ)は子羊に対して特別な感情を持ってしまいます。自分の子供ではないのに、子羊を自分のものとしてしまいます。そのために、あろうことか本当の母親(母羊)を殺してしまうのです。きっと多くの方々は「罪深い行動」と感じられたのではないでしょうか。

 

他者のものを自分のものとしたのです。これは禁じられた木の実(リンゴ)を我がものとしたイブの罪と似ているような気がします。作者が旧約聖書をイメージしたかは分かりませんが、映画では妻の行為に対してかなりの悪意を連想させる表現となっています。

 

アダムとイブはエデンの園を追われます。これは禁断の実である知恵の実(リンゴ)を食べたからだと言われていますが、実はリンゴを食べた後、生命の実をも食べようとしたからだと考えられています。アダムとイブが神のように知恵を持った後、さらに永遠の命を得ることに対して、神が危機を感じたからだというのがこの物語の解釈として定着しています。

 

さて“夫婦のとった行動は、エデンの園を追われるほどのものだったのでしょうか…、夫婦はどのような罪を負ったのでしょうか…”

 

夫婦が生活のために母羊をつぶすことと、子羊を我がものとするため(母羊を抹殺するため)に母羊をつぶすこととの間に、どのような差があるのでしょうか。生活のためならつぶしてもよく、妻のわがままのためだったら妻は罪を負わねばならなかったのでしょうか。

 

一般に生活のためなら尊く、エゴのためなら卑しいというのが多くの人の意見かと思いますが、皆さんはどうお考えになるでしょう。もし罪があるのだとしたら、その代償に夫の命は奪われなければならなかったのでしょうか。

 

妻に罪があるとする立場は、道徳的に無駄な殺生は良くないという考えに立脚しているでしょう。つまり物語は、良くない考えに基づいて行動をした妻は、連帯して責任を負う夫がその報いとして、牧神から鉄槌を下されて当然であるという、極めて道徳的な側面を支持していることになります。

 

しかし、妻に罪があるとまではいえないのではないか、という考えもあるでしょう。半人半獣として生まれてきた子羊は、自力では生きられないし、母羊だけでも育てられないと考えれば、夫婦が育てるのが当然であるとする考えです。

 

この立場を取る人からすると、夫が撃ち殺されるのは極めて理不尽であるといえるのではないでしょうか。当然の行動(忌々しい母羊の排除)をしているのであって、何らかの報いを受けなければならないのは、まったくもって不合理であり、夫婦は単なる被害者であると考えることも出来るかもしれません。

 

つまりこの映画の夫婦は、半人半獣の子羊と出会うという奇跡体験をした後、自分たちの生活に不必要な存在(母羊や夫の弟)を排除したのであって、誰かから責められるような行動をしているようには思えないのです。

 

さあ、みなさまはその点をどのように考えられるでしょうか。

 

 

アダ(子羊)は、あたかも大波のように夫婦に押し寄せ、その波の中で二人を翻弄します。やがて夫婦は我を失っていき、最後には波が引くように、牧神がすべてを奪ってこの物語は幕を閉じます。

 

“牧神とは一体何だったのでしょうか。”

 

アダムとイブがエデンの園を追われるとき「地を耕さなければ食べ物を得ることは出来ず、苦しみの中からでしか子供を産むことは出来ない」という苦難が与えられたとされるのですが、この苦難は二人にとって理不尽な仕打ちであったに違いありません。

 

羊飼いの夫婦には、まさにこの理不尽な火の粉が降りかかってきたのであって、アダムとイブが経験した理不尽さと共通するものがあるように感じます。つまり日常は理不尽な出来事であふれているということなのです。

 

 

この物語の夫婦はアダムとイブという人間の起源を表しているだろうし、夫の弟はヘビを表しているでしょう。世間の評価やうわさ話、下賤な人間社会の暗部を暗示しているかのようです。一方牧神はというと…。神…のようなものを象徴しているのかもしれませんが、同時に理不尽な出来事すべてを表現しているのではないでしょうか。

 

ウクライナの人々(羊飼いの夫婦)が一体何をしたというのでしょう。そもそも侵攻を受けるような罪を背負ったのでしょうか。世界(夫の弟)はそれぞれの思惑で不可解な行動をしています。そしてロシアのプーチン(牧神)は全くもって意味不明な行動をしております。まさに理不尽極まりない行動です。

 

あまりいい表現ではありませんが、これこそが人間の世界であり、この中でしか私たちは生きることが出来ないという、きわめて冷徹な視点を持ってこの映画は創られているかのようです。

 

この「LAMB/ラム」という映画は全編を通して静かな世界観を持っているのですが、極めて現実的で、抗うことのできない人間の宿命を直視した現代の寓話となっているように感じます。傑作であるかは別にして、一度はこの世界観に浸ってみるのも一興かもしれません。

 

ちなみに、この映画のように牧神を描いたダークファンタジーに「パンズラビリンス」(牧神パンの迷宮ほどの意味)という映画があります。この映画も「LAMB/ラム」とテーマが重なるように、息苦しいほどの理不尽さが際立っています。…ご参考までに。

 

そろそろ公開の終わりが見えてきています。可能であれば是非ご覧になってはいかがでしょうか。11月中旬から下旬にかけて公開が終わってしまいそうです。

 

では。

 

 

※)映画「LAMB/ラム」2021アイスランド  2022年9月23日公開

  第74回カンヌ国際映画祭 ある視点部門 受賞

 

 

 

74,心理学で読み解くアニメの世界

          心理学で読み解くアニメの世界

              「灰羽連盟

 

 

編集後記

 

全十三話とその考察について投稿を重ねてきましたが、いかがだったでしょうか。最初はとても不思議な雰囲気が感じられたのではないでしょうか。一見すると天使のような姿をしている灰羽達ですが、内情は悩みを抱えた大人になり切れていない子供たちの物語といえるかもしれません。

 

話師という指導者に生きるヒントを与えられながらも、自らの生に苦悩する灰羽達。彼らの悩みや苦しみは、実は私たちが抱えているものと変わりがなく、見ている私たちが同じような気持ちを感じたりします。それが身を切られる様なリアルさにつながっているのではないでしょうか。

 

ラッカは仲間との絆を失ったことで“罪憑き”に苦しみ、やがてその絆を取り戻します。一方レキはこの世界に転生した時からずっと絆を拒み続けています。ラッカが罪憑きから許される過程を目の当たりにしても、自身ではその殻を破ることが出来ませんでした。レキは一人で、さらに孤独感を深めます。

 

第十三話のまとめでも書いたように、ラッカがレキを必要としたように、レキもまたラッカを必要としていたのでしょう。人は人との関わりの中でしか生きられない生き物、ということなのでしょうね。

 

 

ここで物語の最後の場面について少し触れておきたいと思います。ラッカが電源リールを持ってオールドホームの廊下を歩いていると、ある部屋の床に新しい繭を発見します。ラッカが喜んでいると、その横にもう一つ現れます。

 

一つはレキの“生まれ変わり”などと想像できますが、もう一つはどのような新生子なのでしょう。もちろん明確な答えなどはありませんが、レキを見届けたネムがレキの後を追うように巣立ちの日を迎え、二人がいたその場所を占めるように、二つ目の繭が生まれてきたのではないかと想像してしまうのです。ラッカ、カナ、ヒカリが新生子を迎えるというわけです。

 

オールドホームは、この先も多くの新しい灰羽達を迎えることになるのでしょう。きっとそこにはたくましくなったラッカたちがいます。この物語を見終わった時に喜びと悲しみが併存しているのは、成長の先に永遠の別れが潜んでいるからかもしれません。それはあたかも卒業を迎えた子供たちの誇らしい姿を見るような気持と同じなのではないでしょうか。

 

今回の物語は、大人にとっては子供の成長を見るような、また子供たちには等身大の仲間の苦悩を共に体験するような、リアルで痛々しいけれど温かい人間ドラマだったといえるような気がします。今回取り上げた「灰羽連盟」を楽しんでいただけたのなら幸いです。

 

 

さて、コロナの「波」は引き続き一定の水準にあるものの、政府の対応はインフルエンザ並みに緩和されてきたように感じられます。海外からの旅行客に対しても、ほぼ制限の無い渡航が可能となりました(ワクチン接種が必須ですが)。徐々に日本経済が回復しつつあると感じられるところです。

 

このブログでは、心理学的な学びを深めようと、アニメの中にある心理的な葛藤を筆者の視点で取り上げてきたつもりです。当然多くの見落としや、見誤りなどがあるかとは思いますが、一認定心理士の視点として温かく見守っていただけたら幸いです。

 

コロナにより勉強会の開催が出来なくなってから、このブログをはじめました。コロナが落ち着きつつある現在、今後のこのブログの方向性を少し悩んでいるところです。やめるつもりはないのですが、取り上げるトピックスに幅を持たせ、国内外の実写映画も取り上げていけたらと思っています。

 

今後はかなり不定期な投稿になるかもしれませんが、よろしければ時々で結構なのでこちらへ訪ねてきていただければ嬉しく思います。次回以降、アニメに限らず映画も含めて、その時々の作品を適宜取り上げたいと思っております。

 

では、また次回の投稿でお会いしましょう。

 

 

Midnight Walker