79,心理学で読み解くアニメの世界

          心理学で読み解くアニメの世界

              「カラフル」

 

第二回

 

前回は兄「満」について考えてみました。今回は先ず母親を取り上げたいと思います。「真」の母親は確かに不倫問題を抱えていました。物語の中で「ぼく」はプラプラからその真実を告げられるのですが、プラプラはその背景までは教えてはくれません。物語の終盤近くになって、ようやく不倫エピソードの真実が示されることになります。

 

その中で母親は、姑との不仲があるにも関わらず懸命に介護をして見取っている事実が語られます。理解し合えなかった姑との関係や、介護に無関心な夫との関係に疲れた母親は、精神的に追い詰められ躓きます。その後心療内科を受診するのですが、そこで処方された薬がこの物語を引き起こすことになるのです。

 

クラスの中でいじめの対象であった「真」は、ひろかの援助交際現場を目撃してショックを受けます。そしてあろうことか母親の不倫現場にも立ち会ってしまいます。父親は母親の不倫が自殺の原因であると考えているようですが、それだけではなく、ひろかの援助交際も原因の一部だったのかもしれません。

 

少なくともこの時の「真」は、母親に対して神聖な存在としてのイメージを持っていたのではないでしょうか。母親の見たくない姿を目撃したことで、絶望を感じてしまったことは、自殺の大きな引き金であったと考えられます。いずれにしても、「真」も様々な出来事に追い詰められて自暴自棄になっていったのでしょう。

 

 

さて、母親のイメージとはどのようなものがあるでしょう。深層心理学にはグレートマザーという考え方がありますので、ここでご紹介しておきましょう。母親とは子供を生み育て、無償の愛を捧げる神聖な存在であるとする考えがあります。確かにそれは間違ってはいないと思うのですが、母親にはもう一つの側面もあるでしょう。

 

子供が大切であるがゆえに誰にも渡したくないという思いから、子供を囲い込み独占し、支配しようとします。無償の愛のはずが、代償として自分に従うように仕向けたりもします。子供が意志を持ち始めると、それを阻害しようとすることもあるでしょう。子供にとってはアンビバレント(両極端)な性質も持ち合わせているのです。

 

この「カラフル」のお母さんは、慈愛に満ちた母親のイメージで描かれているように感じます。無償の愛を捧げなければならない息子が死んでしまうという悲劇と、一転してその息子が息を吹き返すという奇跡に遭遇し、お母さんはどうしていいか良く分からないまま時間が経過していきます。

 

「真」の中の「ぼく」は母親の不倫を認識し、母親を蔑むようになります。厳しい視線を受ける母親は、自分の行動が原因であること承知しているために、「真」の態度や言葉に対してただ耐えることしかできません。では、母親は何か申し開きができる立場なのでしょうか。

 

言い訳を並べたところで「ぼく」は受け入れないでしょうし、他の家族メンバーも受け入れるのは難しい気がします。ただ耐えることしかできない存在として描かれている母親ですが、むしろその態度こそが「真」を適切な場所へと導いたのではないでしょうか。結果として「真」は家族に救われることになるのです。

 

 

一方、この物語に出てくる父親はどこか影の薄い存在として扱われています。父親は何を考え、家族をどこへ導こうとしているのでしょうか。この家族は、現代にありがちな「母親中心」の家族の典型として描かれているようにみえます。

 

かつて父親は、乗り越えなくてはならない壁のような存在として考えられていたところがあったと思いますが、現代社会の中においては、そのような壁は必要なく、むしろ子供が精神的にも身体的にも、立派に成長することを「援助」することが、父親の役目として強調されているように感じられます。見本となる父親像が見えにくい時代といえるのかもしれません。

 

そんな中でも「真」の父は頑張っている方ではないでしょうか。プラプラは、父親のことについてあまりいいことを言っていませんが、父親は自分の立ち位置を良く知っていて、無理をせず、しかし家族のために共に時間を使うことの意味をよく知っているようです。父親は「自分が考える父親」としての責任を果たしたいと考えているのではないでしょうか。

 

「ぼく」が父親と釣りに行く場面があるのですが、その場面で父親は、「お母さんにすべてを任せてしまって申し訳ない」気持ちであることを「ぼく」に告げます。そしてその事と「真」のことで、お母さんはギリギリのところにいることも承知していると言います。

 

良いか悪いかはさて置き、父親は母親の行いなど承知しているし、とっくに許していることが暗示されているように感じます。父親は暗に「人の心に寄り添う」ことの大切さを「真」に伝えようとしているかのようです。

 

 

さてこのように兄、母親、父親という家族の成員について少し細かく見てきましたが、家族を一つの社会的な単位として捉え、家族間の人間関係を細かく見ていこうとする態度は、個人主義的な伝統的カウンセリングとは若干異質なものといえるかもしれません。

 

これは、ここ50~60年の間に発展してきた考え方であり、家族を一つの社会的システムと考えることから、「家族システム論」といわれています。元々はベトナム戦争(1955~1961アメリカ実質参戦~1975)を契機に、その帰還兵を対象とした様々な心理療法の一つとして考案されたもので、マインドフルネスもそのような療法の一つといえるでしょう。

 

患者の症状が良くなり、家族が入院中の患者の元を訪問することはよくあることです。しかし家族による面会中、あるいは家族が帰ると急に患者の状態が悪くなるケースがしばしば起こりました。

 

また一旦退院してから、さらに状態を悪化させて再入院するケースも多く観察されたようです。落ち着いた環境の中では平穏に暮らせるのに、家族が周りを取り囲んだ途端に、症状を悪化させるという現象が起こってしまうのです。

 

安心できるはずの家族が関わった途端に、状態を悪化させる原因は一体何なのでしょうか。多くの心理療法家たちがその謎の解明に取り組む過程で「家族の在り方」に何か問題があるのではないかという仮説が立てられました。

 

創成期には家族の対話を録音・録画、またマジックミラー(ワンウェイミラー)を使用し、その背後で専門家による観察や、面接室に電話を置くなどして、家族の関わり方全体を、トータルで検討する方式が取られました。

 

家族心理学(家族システム論)では、このような面接形態を基本としているのですが、日本には1960年代に導入されて以降、このようなやり方をしている組織は現在ほとんどみられないようです。

 

しかし家族を一つのまとまりとして集団面接する姿勢は変わっていません。それぞれの行動観察をもとに、その場でフィードバックされるような構成であるため、より治療的な側面があるといえるでしょう。

 

当然のことながら家族の最小単位は夫婦であり、カップルカウンセリングが基本ですが、家族成員それぞれが所属している原家族を考慮するため、世代間や兄弟姉妹の影響なども考慮の対象となってきます。

 

 

ではこのような視点でこの家族を見てみると、どのような特徴がみられるでしょうか。「真」にとっての兄は無関心でイヤミな存在、父親もまた無関心で家のことを省みることもしない、母親だけが一人崖っぷちギリギリの所をさ迷い、途方に暮れていました。

 

それぞれの内面には人に言えないこと、言いにくいことがあり「ぼく」はその事実に次第に気がつき始めます。母親は申し開きできないことをしてしまったと後悔していること、家族や妻のために力になれなかった父親の気持ち、弟のことを心配しながらも、進学のためにかなりの我儘を聞いてもらっている兄。

 

しかしそれぞれの心の奥底には、「真」を心配する気持ちが満ち溢れていることを「ぼく」は知ります。「真」の進路について家族が話し合う場面は、この物語の大きなターンイングポイントであり、最も重要な家族の関わりであったといえるのではないでしょうか。

 

 

同じようなことは学校の中でも起こっていて、唱子やひろか、早乙女君との関わり方も変化してきます。これは学校成員として、お互いに影響を与え合うことによる変化の一つであり「学校システム」(友人関係)の変化とでもいえるでしょう。

 

「真」の人生の中では、親友といえるような友達が一人もいなかったことを、「ぼく」はプラプラより聞かされていました。「真」として生活していくうちに、「ぼく」は「真」とは性格や雰囲気が相当違うという事に、周りの反応から気づいていきます。

 

「真」の人生が新しく動き出した…、といえるのかもしれません。すると同級生の中に、「真」を気にかけ見つめていた人たちが「真」に対して反応し始めます。早乙女君と唱子、ひろかです。

 

自殺を遂げるまでの「真」は、意識して自分を変えることができなかったのでしょう。しかし生まれ変わった「ぼく」が、新しい人生を動かし始めることで、それが周りに伝播し、多くの人たちの心や態度を変化させることになります。その結果、周りの人々に「自律的」な変化を起こしたといえるのではないでしょうか。

 

 

ではここで「唱子」について考えてみたいと思います。「唱子」はとても不思議な存在です。親友というよりも、むしろ「ぼく」にとっては、なんとなく煙たい存在といえるでしょう。当初シャドー(本来シャドーは同性の嫌な人)のような要素を感じたのですが、何度か映画を視聴しているうちに、やはりアニマではないかと思うようになりました。

 

「ぼく」の位置からは見えにくいので「唱子」の立場から「ぼく」の自殺以前の時間軸で考えてみると、面白いことが見えてくるような気がします。物語の終わり近く、唱子の口から「あなたは命の恩人」と述べられているように、唱子にとっての「ぼく」は実は彼女にとってのアニムスだったのではないかと思えるのです。

 

「真」はずっと唱子に霊感を与えていて、唱子にしてみれば自分に無い側面を示してくれる「真」の存在は、極めて大きかったということなのだと思います。しかしその「真」が、別人のように変化した様子を目の当たりにして「セミナー行った?催眠療法受けた?」と尋ねたくなるのも無理はない気がします。「以前の真」が消えてしまったのですから…。

 

唱子は「真」の人格が変わった原因がとても気になります。彼女にとってそれは、自分の人生に影響を与える程の極めて深刻な問題だったからでしょう。映画の最後、「ぼく」が屋上にいるプラプラのところへ行く前に、早乙女君に「僕の様子が変わっても友達でいてね」と伝える場面があります。この時「ぼく」はまだ「小林真」が「ぼく」だとは気づいていません。

 

しかし美術室で唱子と話しているうちに、自分こそが「小林真」であることに気がつきます。唱子が「本来の真」を連れ戻したといえるのではないでしょうか。二人は深いところで繋がっているかのようです。

 

自分の罪と向き合い、家族や早乙女君とこれからの人生を展望する時、「真」は「唱子」の深い眼差しを意識せざるを得なくなるような気がします。「真」にとっても「唱子」は必要な存在になっていくのでしょう。そういう点で言うと、「唱子」は破滅的な「ひろか」とは、その対極にあるといえるような気がします。

 

ところでアニマ、アニムスについて説明していなかったので、ここで少し触れておきます。ちょっとスピリチュアルな話なのですが、魂はもともと雌雄一体の完全な存在と考えます。人として生まれるとき、男か女として生まれてくるわけですが、その時魂の一部と分離することになります。

 

結果として、自分の魂と対を成す存在が同時に生まれてくることになります。そういった存在のことをアニマ、アニムスと考えるわけです。元々一つなのだから、もう一度一つになろうとする…。物語に登場する主人公の男女のことを

アニマ、アニムスと考えるのは、そういう考え方が根底にあるからといえるでしょうか。

 

 

さて最後に、ストーリーテラーとしてのプラプラについて検討しましょう。プラプラはもちろんすべてを知っているわけですが、最初からすべてを「ぼく」に伝えることはしていません。真実を知るためには順番が大事であるということなのでしょう。

 

『父親は利己的で母親は不倫しており、兄の満は無神経な意地悪男のようで、学校に行ってみると友達がいなかったらしい真に話しかけてくるのは変なチビ女だけ』というプラプラのガイドは、客観的には真実であるけれども実はそれは氷山の一角であり、その奥には簡単には推し量れないものが存在しているのです。

 

それを「ぼく」は体験的に探っていくわけですが、「ぼく」の視点は「灰羽連盟」の灰羽たちと同じではないでしょうか。プラプラは、タイプは違うけれども同じく「灰羽連盟」の「話師」と同じような役割を担っているのでしょう。プラプラは子供の姿をした賢者といったところでしょうか。

 

また、プラプラは賢者であると同時に、トリックスターの要素も兼ね備えているといえるかもしれません。トリックスターとは直接的には関与しないものの、大きな転機をつくるキーパーソンのことを指します。「より高所から見つめている「もう一人の自分の視点」のことを「メタ認知」と言ったりしますが、「ぼく」が「小林真」であることに気づくことでプラプラは消えてしまいます。

 

プラプラの仕事が達成され、その役割が終わったことで、ぼくの中にプラプラが統合されたと考えると分かりやすいかもしれません。「ぼく」を導き、気づきを与えることがプラプラの仕事だったとすると、プラプラは自分の中にある「もう一人の自分の視点」であったと考えることもできそうです。

 

プラプラは決してスピリチュアルな存在ではなく、自分をレスキューするために自分が生み出した「もう一人の自分」である。そう考えるとプラプラは「真」が自殺するまでの出来事はしっかり記憶していても、「ぼく」として息を吹き返してからの経験は無いことになります。

 

「ぼく」が今経験していることが未知の出来事であるということと同じように、プラプラもまた「ぼく」が修行を成功させることができるかどうか不安だったに違いありません。しかしプラプラは「ぼく」が修行を成功させる自信があったのではないでしょうか。それは「ぼく」だけの問題でなく、プラプラにとっても存亡の危機だったのですから…。そんな風に感じているのは、筆者だけではないはずです。

 

苦しみと一体化していると(取り込まれていると)、その構造が見えなくなってしまいます。いわゆる視野狭窄の状態といわれるものです。しかし少し離れた場所から「観察」することで、今まで見えなかったものが見えてきます。自分だけではなく、他人の気持ちにも焦点をあて、その気持ちに気がつくことが何よりの「修行」といえるのかもしれません。

 

「ぼく」は家族の想いや、唱子の想い、ひろかや早乙女君の想いに触れて自分を深く見つめ直すことができたのでしょう。このプロセスによって、ようやく「ぼく」は「真」と、さらに「賢者プラプラ」とも統合できたといえるのではないでしょうか。

 

 

「カラフル」はファンタジー的な要素をもった物語ですが、同時に極めて現実的な出来事としてみることもできます。「当選」によって修行する機会が与えられたという設定も、自殺未遂で息を吹き返してから記憶障害となるケースを書き換えたものと考えることもできるでしょう。

 

一時的に記憶を失ってしまうことを、解離性健忘といいますが「ぼく」はこの解離性健忘の状態にあったといえるのではないでしょうか。解離性障害とは、器質的な異常がないにも関わらず、意識や同一性の障害が起こるものをいい、解離性健忘はその典型とされています。

 

外傷的で強いストレスを伴うできごとに遭遇した後などに、そうしたできごとや自分に関する基本的な情報などを思い出すことができなくなる症状を指します。つまり症状が消え、記憶が戻ることで、死にたいほどの感情も蘇ってくるわけです。

 

抱えきれない苦しみに、「真」は一度押しつぶされました。しかしゆっくりと自分を取り戻すことで、押し寄せる苦痛の嵐からは解放されたのではないでしょうか。この物語は、「ぼく」がもう一度人生をやり直すために作者が与えた再生のプログラムであり、その視線はどこまでも優しく温かさがあふれています。

 

思春期・青年期の若者が読むことを前提に書かれたこの小説は、もちろん彼らを応援していますが、決して力強く背中を押したりはしていません。「ゆっくりでいいんだよ」という作者のメッセージは、さわやかな心地良さを感じさせてくれるのではないでしょうか。

 

 

では、また。