19、心理学で読み解くアニメの世界

          ユング心理学で読むアニメの世界

              「言の葉の庭

 

 

第五回

 

編集後記

 

四回に渡って「言の葉の庭」という作品についてお話してきましたが、みなさんはどのような印象を持たれましたでしょうか。人それぞれ、と言ってしまえばそれまでなのですが、心理的な視点を強調しつつ、この作品の持つインパクトや、心理的課題などについて書いてきたつもりです。

 

先ず初めに、彼らの出会いはカウンセリングのようで、その出会いを重ねれば当然の如く信頼から恋愛という感情に移行してしまうことをお話ししてきました。しかし彼らの歳の差は12歳で、作者はそもそも恋愛が成就することなど考えていなかったのではないでしょうか。出会い、雪野にとっては安らぎ、孝雄にとっては憧れ、そして別れといったことが、いわゆる通過儀礼として描かれているのだといえるでしょう。

 

次に、コンステレーション(星座・布置)です。偶然の出会いはどこにでもころがっているでしょうが、その出会いを受け入れられる心のあり方(精神状態)であることがとても重要です。“準備された出会いは準備された心にのみ受け入れられる”といえるでしょう。

 

第四回のレビューで、夏休みに、雪野さんが読んでいる漱石の「行人」という本について触れました。この本については、少しお調べいただければ分ることですが、知識階級といわれる人々の恋愛と嫉妬などの激しい葛藤が描かれていて、雪野はそこから自身の恋愛について、何かを得たいと思っていたのではないでしょうか。

 

また、出会いの象徴として「和歌」を用いている点ですが、日本の古典文学を振り返ると、そこに“和歌”の無い文学などあり得ないことが分ります。新海誠監督は、日本人であることの根源的アイデンティティとして“和歌”を捉えているのかもしれません。

 

コミュニケーション手段としての「靴」の役割は、どのように感じられましたでしょうか。シンデレラという童話は多くの人に知られています。ここに登場する「ガラスの靴」にはどのような意味があるのでしょう。…ほとんどの方がご存じのように結婚の象徴です。孝雄にとっては、恋人や配偶者を求めることのできる成熟した自分の形成が課題だったといえるのではないでしょうか。

 

それに対して雪野は…。彼女の場合は、パートナーを求めるよりも、仕事や私生活の混乱によって方向喪失の状態にあったといえます。複雑な人間関係を描いた「行人」にあるような「より大人であることとは何か」について模索していたといえるかもしれません。

 

 

さて、前回の投稿の最後の方に、以下のようなことを書きました。

 

『さて、ストーリーについて、納得がいく、いかないなどの投稿を良く見かけたりしますが、私はあまりそういう視点で物語を観てはいません。論理的に不合理である、あるいは、キャラクターや細部の描写が有り得ない、などなど、ある意味どうでもいいこと(すみません(^^;)にこだわっている投稿が多いように感じますが、考えてみれば、人が考えた物語に完璧さを求めるというのは、無い物ねだりをしているように感じます。もちろん求めるのは自由ですが…。人はそんな完全なものなど、そう簡単に作ることなどできないのではないでしょうか。……』

 

言の葉の庭」はAmazon.comなどでは、購入者の方々がレビューと共に多くの評価を残していますが、この作品は評価者数がとても多いにも関わらず、なぜだかその評価が低くなっています。

 

なぜそんなにも低評価されるのか…。評価者のコメントなどをご参考になさって、是非みなさん自身で読み解いていただけたらと思っています。自分の視点と評価者の視点の違が何なのか、きっと何か面白いことに気づかれるのではないでしょうか。