18、心理学で読み解くアニメの世界

          ユング心理学で読むアニメの世界

              「言の葉の庭

 

 

第四回

 

言の葉の庭」のDVDを購入した通販サイトに、購入者としてレビューを投稿したのですが、ここでそのレビューを紹介しておきたいと思います。

 

 

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心理学の勉強のために、数年来ずっとアニメ作品を観ています。特に強い個性を持った宮崎駿今敏新海誠さんの作品群などは、とても興味深く感じています。アニメを観る理由、特にある特定の作家さんの作品を観ることの意味は、その作家の夢のイメージ、心の奥の深いイマジネーションを通して、作家の「人となり」に触れることができるからだと思っています。新海さんは物語を創作し、作画も担当し、結果生まれてくる作品は、新海誠の無意識が色濃く表れていることは、言うまでもないことでしょう。

 

今回は、多くの方々のレビューに触発されて、私も書いてみようかと思い、投稿することといたしました。肯定的、否定的な視点など、様々な意見がありますが、私はこの物語からどのようなことが学べるのか、あるいはどのような視点でこのアニメを観たのか、について書いてみたいと思います。

 

主人公の孝雄は15歳。雨の日の午前は新宿御苑で授業をサボっています。中学三年生から高校生活に移ることで、彼の日常は明らかに大きく変わったのでしょう。生活圏が徒歩圏内から交通機関を使用するぐらい(一般的に言えばですが…)に一気に広がりました。明らかに子供時代(児童期)から、次のステップへとステージが上がっています。子供の頃は、絶えず見上げれば空があったのに、今は地下(地下鉄)の中にいる、そういった心情が、大人へ近づくことへの葛藤(不安、不快な感覚への継続的接触)を表しているような気がします。

 

彼の家は、年の離れた兄と、独り立ちできない母との三人家族です。兄は近々、家を出ると言うし、孝雄にしてみれば、おのずと独り立ちへの欲求が高まるのも無理の無いことです。料理や身の回りのことなど、一見するとしっかり者として描かれていますが、内実はどうなのでしょうか。15歳の男の子をイメージしてみれば容易に想像できそうな気がします。高校をちゃんと卒業できるだろうか。靴職人のための学校に行けるだろうか。学費は準備できるだろうか。高校の勉強とは別に、靴を作るためのデザインの感性は自分に備わっているのだろうか、などなど。将来について不安が渦を巻いていて、何一つ確かなものは無い、そんな状態なのだろうと感じます。

 

もう一人の主人公、雪野さんについてです。彼女の置かれた状況は、後段語られますが、女子生徒達からのいじめに遭っていて、事実上、勤務ができていない状況になっています。登校もできず、味覚障害もあり、本来なら何らかの心理的サポートが必要な状況なのですが、彼女は自力で何とかしようと努力しています。壁に突き当たることはよくあることです。そのような状況は、年齢に何ら関係が無いといえるでしょう。

 

彼女にはもう一つ、大きな問題があります。それは同僚との不倫関係(私はそう解釈しています)です。とても優しい“彼”は、ただ優しいだけで、決して“私の話”を聞いてはいない。いつも表面だけ。27歳を迎えた彼女にとって、何らかの決着をつけたいと思ったにしても、それはとても自然な事で、むしろできるものなら、早くすっきりした方がいいようなことだと思います。この関係も彼女にストレスを与えていて、味覚障害などの実害を引き起こしていたのかもしれません。

 

人生を生きる上で、その時代その時代に、獲得すべき課題があるといいます。15歳の孝雄にとっては、勤勉性であり生産性といえるでしょう。もしその獲得に失敗すると、激しい劣等感に襲われるといいます。一方雪野にとっての課題は、親密性や愛着といったもので、その獲得に失敗すると孤独に陥るといわれています。またその中間の世代には、自分が自分であることの充足感としての、自我同一性(アイデンティティ)の獲得が必要であるといわれています。いずれにしても、2人に共通している問題は、「自分は紛れもない自分であり、そのことに満足している」という感覚の獲得なのだと思います。

 

とても気になるセリフに、「どうせ人間なんて、みんなどっかちょっとずつおかしいんから」というものがあります。この言葉は、雪野さんの言葉であると同時に、新海さんの無意識でもあると感じます。ある意味それは真実を言い当てていて、主人公二人が抱えている問題と、新海さんが抱えているかもしれない問題と、とても近い関係にあるのではないでしょうか。アイデンティティの獲得は、絶えず行ったり来たりしながら獲得するものなのかもしれません。雪野さんにとっても、新海さんにとっても(映画公開時40歳)。

 

さて、孝雄と雪野は、ふとしてきっけかで出会います。出会いの形にはあまり意味がないような気がします。むしろ出会って、軽く声を掛けて、再び出会って…。その繰り返しで、お互いにさらに言葉をかけ合います。ある一定の環境や時間、状況の中での出会いを重ねると、特別な感情が生まれてくるといいます。特別な「器(うつわ)の中」で彼らの化学反応が起こり、やがて二人に、今までとは違う感覚を呼び起こすことになります。これこそが、二人を次のステージへと導く「大きな気付き」との出会いなのだと思います。例えば、カウンセリングにおいては、そのような状況をとても大切にしていて、やがて自発的に変化が生じるきっかけとなるようです。

 

そうそう、孝雄はしきりに、「ガキ」という言葉にこだわりを持っています。15歳の男の子ですから、雪野といつまでたってもバランスは取れませんね(一般的に言ってですが…)。従って、そのコンプレックスはある意味当然といえるでしょう。では、雪野にとってのコンプレックスは何だったのでしょうか。それは恐らく、「真実を語ることの難しさ」だったのではないでしょうか。雪野は孝雄と出会い、彼のまっすぐな生き方と感性に多くの霊感を受け、自分自身が「変わろう」としています。でも、自力ではやはり変われなかった。雪野が変わるきっかけを作ったのは、やはり孝雄の「真実」だったといえるでしょうか。

 

最後の方で、雪野さんの部屋で、孝雄は素直な気持ちで雪野さんに語ります。しかし雪野さんは、その気持ちに答えることができませんでした。「先生はね…」。このくだりは、孝雄の真実に、雪野がどのように答えるかという、この物語の核心的な部分といえます。一旦は、聞き流した雪野ですが、孝雄の真剣な語りに「自分は答えていない」ことに気付き、雨の中、孝雄を追ってマンションの階段を駆け下ります。初めて雪野が、意識的に孝雄と真剣に関わった瞬間といえるかもしれません。この時を境に、彼らに大きな変化が訪れたのだということを信じたいです。

 

言の葉の庭」という作品が、ことのほか多くの人々によって語られる背景には、臨床心理学的に、とても多くの基本的なトピックスを多数含んでいるからだろうと思います。世代間の交流、家庭内の問題、男女の関わり、精神的困難な状況への対応、いじめ問題、不倫問題、学生の進路問題、メンタルサポートの問題、怠学の問題などなど、ざーっと上げてみても、かなり盛りだくさんです。この物語は、ただの高校教師と生徒のラブロマンスでは言い尽くせない部分が、多く存在していると思うのです。

 

夏休みに、雪野さんが読んでいる漱石の「行人」という本について、また、出会いの象徴として「和歌」を用いている点、あるいは、コミュニケーションの手段としての「靴」(靴をとおして身体接触があります、それも女性の足に!)の役割など、触れておきたい点は他にもたくさんあるのですが、それらはご覧になった皆さんの自由な発想に委ねたいと思います。

 

さて、ストーリーについて、納得がいく、いかないなどの投稿を良く見かけたりしますが、私はあまりそういう視点で物語を観てはいません。論理的に不合理である、あるいは、キャラクターや細部の描写が有り得ない、などなど、ある意味どうでもいいこと(すみません(^^;)にこだわっている投稿が多いように感じますが、考えてみれば、人が考えた物語に完璧さを求めるというのは、無い物ねだりをしているように感じます。もちろん求めるのは自由ですが…。人はそんな完全なものなど、そう簡単に作ることなどできないのではないでしょうか。

 

自分が観た夢に対して、なんて不合理だ、ディテールがなっていない、などとダメ出しをする人はあまりいないでしょう。そういうことより、今ここにあるイメージ(作品)自体が持っている臨場感や、夢の不思議さなどから伝わってくる、“肌触り”のようなものを感じ、作家の心の中に入っていくことの方が、はるかに挑戦的で、前向きなのではないかと感じています。批判より吸収、みたいな感じかもしれません。

 

ちょっと生意気な事を書いてしまいましたが、このような作品を創った新海誠さんという人となりは、実は彼自身、アニメの仕事に没頭しつつも、どこか自信の無さや自分の弱さを感じたりして、日々、試行錯誤を繰り返し、自身の課題獲得のために、努力している人なのではないかなぁ~、と感じたりします。自信を持っているというよりも、むしろ自信が無いからこそ、神経質なまでに細部へのこだわりが強いのではないか…。新海誠自身が、物語の二人の主人公と同じ速度で成長しているのだと感じます。この作品は、そんな「新海誠」を、間近に感じさせてくれる、とても貴重で、素晴らしい作品なのだと思います。

 

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では、次回を最後の投稿とします。