54、心理学で読み解くアニメの世界

          ユング心理学で読むアニメの世界

              「妄想代理人

 

 

番外編 全体を通しての考察

 

一、発端

 

新キャラクター創作への過度な期待に対して、鷺月子はそのデザインを決めかねていた。しかしキャラクター発表の時期を指示され次第に追いつめられる月子は、激しい葛藤の中から少年バットを生み出してしまうことになる。というより、もう一度助けを求めたといった方が適切かもしれない。それが少年バット登場のセリフ「ただいま」の意味だろう。

 

10年前に月子と少年バットとの関わりが起こった出来事、すなわち月子が小学生の時に経験した愛犬マロミの事故死事件が第十二話、第十三話で詳しく語られる。自分の不注意からマロミを死なせてしまったという自責の念に堪えられず、月子は責任回避のために通り魔「少年バット」をでっち上げてしまうのである。

 

厳しい父親に叱られるのが怖かった月子は、少年バットに襲われたことで被害者となり、マロミ死亡の責任を回避できることになる。また被害者という立場になることから、心配され大事に扱われることにもなる。被害者を装うことで利益を得ることになるのだが、これを被害者利得(病気利得)などとという。

 

さて、言葉が悪いかもしれないが、月子はこの経験で味をしめることになる。行き場を失い追いつめられた時に、自分が被害者となることでその葛藤状態を解き、多くの人から憐みの気持ちを向けられるような悲劇のヒロインとなれる、そんな方法を手にしてしまったのである。月子は10年後、この時の経験を再現することになる。

 

 

二、被害者

 

月子の事件の後、次々と似たような事件が続く。川津明雄、牛山尚吾、鯛良優一、蝶野晴美(マリア)、蛭川雅美、狐塚誠、そして蛭川妙子である。ただし、牛山尚吾と蛭川雅美は狐塚誠が襲っている(自供による)ので、少年バットによる犯行とは直接は関係が無い。

 

話しが進むと、馬庭刑事によって、それぞれの被害者が何らかの問題を抱えていたという共通点があることが見出されてくる。川津明雄には、交通事故による被害者への補償問題があった。しかし記者としてスクープに縁がなく、収入が安定していない。そこで月子の事件で一獲千金を狙うが、月子からはまともなインタビューが取れずにいた。

 

牛山尚吾については狐塚の証言から、少年バットを模倣して襲ったことが語られている。確かに牛山にも葛藤はあったようで、以前の学校でいじめにあい、転校を余儀なくされていた。だが優一の学校へ転校してからは積極的になり、むしろかつての葛藤を克服しつつあるように見える。

 

牛山と対照的なのが鯛良優一である。彼は葛藤という言葉など全く当てはまらないような生活をしていたが、牛山の登場によってそのリズムを崩される。何をしても空回りして、結局は墓穴を掘り自分に対するいじめを誘発してしまう。未だ経験したことの無い葛藤に苦しめられ、少年バットを呼ぶことになる。

 

蝶野晴美については同情を禁じ得ない。彼女は二重人格という病と闘っているのだが、婚約者に自分の病状を告げることができないでいる。彼女の葛藤はマリアとの関わり、つまり病状に対する葛藤と、婚約者にその病気を知られたくないというダブルの葛藤に苦しんでいるのである。病気に関しては自分の力だけではなかなか克服することは困難であろう。

 

蛭川雅美も狐塚誠が襲っている。事件後、蛭川によって身柄を確保されているので、これほどはっきりしていることもないだろう。蛭川自身にもはっきりとした葛藤はあるものの、それは自ら招いた結果であり、むしろ予想できることであった。それを承知でヤクザにつけ入ったのである。彼に関してはいわゆる自業自得ということだろうか。

 

ある程度見てくると、少年バットにも何らかのポリシーがあるように見える。蛭川の場合は、先にも述べたように自業自得なのである。だが、少年バットは、自分ではどうすることも出来ないような葛藤に忍び寄ってくるようだ。牛山、蛭川はまさにそのポリシーからは外れているように見える。

 

では狐塚誠はどうであろう。彼の回はなかなか評価が難しいが、言ってみればゲームマニアの少年が話題となった少年バットを真似て、世間に自分の存在を誇示しようと面白半分に起こした事件といえるだろうか。そう考えると事件を起こした時は葛藤状態ではなかっただろう。むしろハイな状態だったのではなか。しかしその後、彼は激しい葛藤状態に置かれることになる。

 

面白半分に犯した犯罪であるが、猪狩の厳しい追及で狐塚は精神的に追い詰められる。すべての事件の犯人はお前ではないのかと激しく攻め立てられ、彼は逃げ場を失ってしまう。そして彼自身が少年バットを呼びよせてしまうのである。

 

狐塚の場合、葛藤の激しさから命を失うことになるのだが、第一話から第六話の中で死亡したのは狐塚ただ一人である。狐塚という現代感覚の若者を扱いきれず、死に追いやってしまった猪狩は責任を取り退職することになる。このことから猪狩は、自分の生きた時代感覚が今のものといつの間にか違っていることを感じ、そのギャップに苦しむことになる。

 

最後に妙子である。彼女が感じた葛藤はまさに究極のものだった。父に対する愛情が一瞬にして砕かれ、その父を呪うことになる。その葛藤があまりに激しいために彼女は記憶を消失させるのである。健忘と言われる状態である。そうすることで初めて、彼女は平静でいられるのであろう。

 

 

三、無意識

 

このように見てくると、先にも述べたように少年バットには何らかのポリシー(一貫性)が感じられてくる。月子が感じた葛藤と同じような葛藤に苦しんでいる人の元へ、少年バットは現れるのである。では月子が感じた小学生の頃の葛藤、つまり叱責から逃れるためにウソをつくことによって少年バットを作り上げた月子は、少年バットへの責任転嫁を意識的に行っていたのだろうか。

 

第十三話の中で、マロミを事故で失った直後、目つきの変わった月子が「あいつのせいだよ、あいつが来たんだもん」というセリフがある。それは計算によるものではなく、瞬間に出てきた言葉ではないか。月子は自分の心を守るためにとっさに、そして無意識的に襲撃犯を作り上げてしまったのではないだろうか。

 

誰でも無意識的に自分を守るものだ。自分を守るということは自分が安心することでもあるだろう。そしてその対象は自分が関わるもの、自分の愛するものも当然含んでいる。無意識はまた論理的、感情的に自分が有利になることを好む。自分にとって最も都合の良い方法を選択するのである。しかし、その選択は必ずしも最良の方法とは限らない。感情が強すぎれば引きずられ、不合理な選択をすることもありえるのだ。

 

 

四、エス

 

本ブログの第8投稿にフロイトの局所論と構造論という二つの考え方を記載したので、詳細はそこで確認していただきたいのだが、晩年のフロイトは無意識という領域にエスという名前を付けた。

 

フロイトは、行動する私、意識する私を「自我」、その行動や決定に対してそれが良いことなのか悪いことなのかを判断する領域を「超自我」、そしてそれ以外の領域を無意識と考え、それをエスと呼んだ。

 

月子が無意識に少年バットを生み出してしまったことは、このエスという領域の成せることだろう。あるいは僅かながらも自我が影響を与えているのかもしれない。しかしその判断が良いことなのか悪いことなのかを、超自我は判断してはいない。というより、小学生の意識下ではまだ超自我は成熟してはいないのだ。

 

小学生の月子が事件後に感じた自分への感情は、情けなさや後悔、そして贖罪と共に苛立ちや怒り、腹立たしさなどがあったことだろう。しかしそれらを自分の心で抱えるには彼女は幼過ぎた。従って憎悪の対象を心の外に押し出すことで、ようやくこの事件の処理が出来るようになったのではないだろうか。そのために作りだされた存在が「少年バット」だったということなのである。

 

 

五、禁断の惑星

 

さて、このように無意識下のイメージが実体化して、現実社会に様々な影響を与えるような作品の中で、特に有名なものがある。往年の名画「禁断の惑星」である。SF映画の金字塔といわれるこの作品は、1956年公開のアメリカ映画である。

 

≪宇宙移民が始まった未来世界、アダムス船長が率いる宇宙船が、移民後20年間連絡の取れない移民団を調査するために、移民地であるアルタイル第四惑星を訪れる。しかし生存者はモービアス博士と惑星で生まれた彼の娘アルティラの二人だけで、他には博士が作ったロビーという名のロボットだけだった。

 

モービアス博士の説明によると、先住民であるクレール人は原因不明の出来事によって突然滅亡したという。モービアス博士は彼らが用いたエネルギー生成装置(遺跡)を研究、利用することで、自身の能力を飛躍的に増進させることに成功した。しかしこの世界には、得体の知れない怪物がいて、それはやがて君たちを襲うだろうから一刻も早くこの星から離れるようにと指示をする。

 

姿の見えない怪物が現れ宇宙船の乗組員たちが襲われるが、アダムス船長はアルティラと恋仲になったことで、惑星からの帰還を遅らせることにする。そして船長は二人を救出しようと試みるが、怪物が再度現れて…≫

 

遺跡とモービアス博士との関係が明らかになるにつれ、怪物の正体がはっきりしてくる。映画ではその正体をモービアス博士の無意識、すなわち「イド(エス)の怪物」としている。

 

詳細は是非この映画をご覧いただきたいのだが、人間の表(体面)と裏(願望)、嘘(ごまかし)と真実(責任)といったものの葛藤をテーマとしている。苦しむ人間の姿を描くとともに、同時にそこから脱却する過程をも示しているといえよう。「禁断の惑星」と「妄想代理人」は、とても近い関係にあるといえるのではないだろうか。

 

 

六、引用

 

妄想代理人」と「禁断の惑星」との間には共通点があると指摘したが、実は「禁断の惑星」にもシェイクスピアの「テンペスト」という作品との共通点がある(ここではテンペストについて述べないので、ご自身で検索してみてほしい)。いずれにしても物語にはベースとなるような、より古い物語(古典)が存在しているものだ。物語を創作するとき、多かれ少なかれそういった影響は避けられないだろう。

 

同監督の「千年女優」はまさに往年の日本映画からの引用で溢れているが、この「妄想代理人」でも、多くの引用はかなり見つけられるのではないかと思う。以前指摘したのは「千と千尋の神隠し」であったり「2001年宇宙の旅」「そして誰もいなくなった」などがある。その他にももっと多くの引用が見出されるものと思われる。そういった引用が、この物語に重厚な深みを与えているのではないだろうか。

 

 

さて、今までいろいろな事を述べてきた。登場人物を深堀したり、ストーリーについて引用したであろう作品について、また映画や舞台、文芸作品などについても触れてきたのだが、みなさんはどのようにお感じになられたであろう。きっとあなた独自のものの見方が自覚されたのではないだろうか。

 

それぞれが、この作品の中から様々な気づきを得られたのなら、筆者にとってそれはこの上ない喜びである。今後とも、興味を持たれた作品の解読をお試しになられることをお勧めしたい。

 

更なる自分探しの旅が豊かものとなるよう、心よりご武運をお祈り申し上げ「妄想代理人」についての「まとめ」を締めくくることとする。

 

では次回、編集後記を投稿する。